Fly Me To The Universe

小田急線の急行が停車する駅でのことだ。神奈川県の北の外れといってもいいロケーションに、こんな大きな駅が必要なのかとびっくりするくらい堂々とした、モダンな伽藍がそこにあった。側面のすべてがガラス張りになった8階建てのショッピングプラザがそびえ、上がレストラン、下がテラスになったカフェのテーブルはほとんどが埋まっていた。ペデストリアンデッキの一画で、ストリート・ミュージシャンが、場慣れしたピッキングでアコースティック・ギターを歌わせている。
いかにも人込みがもの珍しそうな、ふぬけた目つきをしていたからだろう、ぼくは勧誘の餌食になった。

ふいに、目の前に壁が立ちふさがった。見上げると、壁の上には微笑みかける男のさわやかな顔があった。
宗教か? いや、それにしては男の胸板が厚すぎた。ぼくの倍はありそうなその肩幅なら、神のご加護を求めなくても立派に生きていけるだろう。思想団体とも違う。たしかに彼は制服を着ていたが、軍服を思わせるデザインではなかったし、なにより、笑顔がひまわりのようにまっすぐで、瞳の澄み方ときたら、その持ち主の頼るものが信心でも政治理論でもなく、自分自身以外にないことをものがたっていた。

さて、それなら彼はいったい何者で、ぼくに何の用事があるのだろう。
新たにわき出た根元的な疑問を待っていたかのように、彼はまっ白な歯を覗かせながら口を開いた。

「なあ、きみ。宇宙飛行士にならないか」

宇宙飛行士。しばし、ぼくはそのことばの響きを胸の中で転がしてみた。
まっ先に連想したのが映画『アポロ13』だ。NASAのアポロ計画において、もっとも惨憺たる失敗に終わった有人ロケットを舞台にしたドキュメンタリー。船長のトム・ハンクスは印象的だった。どれほど絶望的な状況に陥っても、冷静沈着ぶりを失わず、地球への生還を果たしたのだ。少しでもあきらめたりしていたら、いまごろは宇宙の藻屑となり、『グリーン・マイル』は別の役者が主演することになったはずである。
ぼくにそこまで強い意志があるかどうかわからない。なにしろ宇宙飛行士には、宇宙船を操縦するだけでなく、映画俳優をつとめる能力も求められるのだ。

ぼくに備わっている能力といえば…そうだ、これだけは人に負けないと自負できる特殊技能があったぞ。それは一種の嗅覚のようなものだ。
たとえば、外出したとき、腹が減っていたとする。飲食店が4~5軒あり、どこで食事をするかという決定を迫られた際、ひどく悩んだ上に、候補のなかでもっとも不味い料理を出す店を選んでしまう才能がぼくにはある。あるいは、頼んだものを調理するのに、歳を取ったことがかすかにわかるほど待たせる店を選ぶのも得意だ。不味くて待たせる店を選ぶ確率なら、さらに高い。

しかし、この能力は、宇宙飛行士に関係ないんじゃないかと思う。宇宙船の中に、中華料理店や天ぷら屋、パスタの店などが並んでいるなら別だが。いまのところ、そういう屋台村のような宇宙船が飛び始めたとは聞いたことがない。

それなら、もうひとつの才能はどうだろうと、ぼくは自分の中で検討した。それは、仕事が忙しいときほど、仕事以外のことをしたくなる才能だ。実際に仕事以外のことをしてしまう度胸もある。だが、宇宙船内の酸素供給システムが不調になったとき、室内の模様替えをはじめたりしている場合ではないだろう。周回軌道から外れそうな船を手動で操縦しなければならないとき、ビッグコミック・オリジナルを欄外の情報まで熱心に読みふける隊員は、ハッチから真空の空間へ放り出されても文句は言えまい。

どうやら、宇宙飛行士になる資質がなさそうだ。そう結論したぼくは、制服の男にこう答えた。
「その期待には応じられないね。ぼくには不可能そうだ」
「残念だな」
制服の男は、本当に惜しそうだった。
「キミなら、実験飛行用のダミー操縦士の役にぴったりだと思ったんだが」
「宇宙へ行くなら、操縦士ではなく、宇宙船の客としていきたいね」
「うん、それもいいかもしれない」
制服の男は歓迎する口調で言った。
「だけどいまはちょっとムリだな。でも、地球へ二度と戻ってこない旅客宇宙船ができたら、まっさきにキミを思い出すことにするよ」
そして彼は別の候補者探しのために離れていった。

ぼくは遠ざかっていくがっしりした背中を眺めながら、誘いを断ったのは自分のためには正しくても、社会のためには まちがっていたような気がしてならないのはなぜだろうと、ぼんやり考えていた。

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