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着る服が、変わったの。

 服と言えば、忘れられない話がある。

 あるデザイナーさんが、かつて友人だった作家さんの(作家さんは故人)思い出話をしていた。二人は、若い時すごく親密で、毎日会うくらいの仲だったけど、ある時から疎遠になったという。作家さんのほうが再婚して、生活が変わったというのもあるけれど、と言いながら、そのデザイナーさんはこう言った。

「彼女、着る服が、変わったの。そのあたりから疎遠になっていったわ」

 この話は、何年も前に聞いた話だ。いや、何十年前の話だ。それなのに、私は今でもその言葉を覚えている。なんでもすぐに忘れてしまうのに。

 亡くなった作家さんは、再婚するまでは非常に「攻めた」恰好をしていた。そのデザイナーさんも、作る服は「攻めた」服だ。でも、再婚してからの彼女の服装は、どんどんコンサバティブなものになって、最終的には白いポロシャツ(!)なんかも着るようになっていた。すごいふり幅とは思うが、彼女の、その白いポロシャツ姿は、えらく健康で正統で爽やかだった。

 攻めた服をきた彼女から、白いポロシャツを着るようになった彼女。多分以前の彼女なら、まさか「白いポロシャツ」は選ぶまい。ということは、何を着るかを選ぶことは、自分を選ぶことにもなるのだろうか? 

 一方で、私たちには「選べない服」も存在する。制服はまさしくそれで、それを着ることで、私たちは、何らかの集団に「属している」ことを表明している。学校、会社、各団体、着るものは選べないが、私たちは、そこに「属する」ことを選んでいる。

 私が服を選ぶのか、服が私を選ぶのか?

 服が社会をつくるのか?社会が服をつくるのか?

 果たして?

10月27日開催の、哲学茶会フラットでは「服と社会」をテーマにみなさんとお話したいと思います。ご興味のある方は

Mail: cafephilosophia.flat@gmail.com

までご連絡ください。詳細はtwitter:@tetugakuchakai をご覧ください。

 

 

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