台語歌の歴史的流れと台湾語アルバムのおすすめ紹介
小話
憧れの「台北コーリング」を主催されているお二人からDJのお誘いを受け、これはガチでやろうと意気込み、テーマ何にしよかなと悩んでいたところから話がはじまります
一つ目のテーマ決め
せっかく台湾関連の楽曲のみのイベントで30分×2セットとのことだったので、そうなるとふたつテーマを考えてそこからセトリある程度作りたいですよね。一つは割となじみがある曲だけどこれまで誰もやってなかったであろう「K-POPの曲の中文カバーセット」から。これは以前の記事からのもので、良曲も揃っていてかつコレクションもバッチシ👍たぶんどんなひとにも対応できるくらいのボリューム。
二つ目のテーマ決め
ひとつは深堀しまくった自信満々なものからですが、もうひとつなんにしよかなータイポップスでええかなあと悩んでました。これもほぼほぼコレクション終わってて可能でしたし、なにより面白楽曲が多いんですね。
ただ、こんな機会をいただくのもめったにないので最近作ったタイポップスカバーからではなくて、新たに一歩進んだものを作りたいなという気持ちがあり台湾語のみで挑戦することに。いつかはタイポップスカバーでやりたいですが・・・
タイポップスカバーto台湾語もいくつかあるので結局被っていて、ブラックリストの名曲は後で紹介するとして、たぶん本文では触れないであろうカバーものだけ紹介。台湾の女性アイドルグループKiss、2000年ごろはちょうどMaydayとかが流行ってた時期、台湾語の曲をアルバムに何曲か入れる風潮が一部で見られました。
KISS【民國幾年】(Bazooーทำไมถึงทำกับฉันได้)
台湾語について
私は学生時代から台湾語を履修してSodaGreenの無眠を覚えるぞと意気込み、発音記号と声調と発音ソフトの使い方だけマスターしたりしたあたりで辞めました、台湾語は全然話せません。
最近のオシャレな台湾ポップスの存在を知る前まで作ったことのあった台湾語楽曲、この辺も個人的には1時間以上かけて発音書き出すほどだいすきなんですけどね。
台湾語のみのDJに挑戦することとなったきっかけ
台湾語の勉強は一瞬でやめましたがそれ以降も台湾語の歌は聞き続けていました、CDを集め始めたころには80s-90sの台語歌史の転換点あたりのアルバムに興味がわき、勉強のために少しずつ集めていました、今思うと自分ナイス!。ほかにも東京に進出してからは最近のアルバムを買ったり、台北コーリングのお二人からBlack Listのアルバム(タイポップスカバーの曲も収録)の話をお聞きしたり、そして、いくつかお二人が実際に最近の台湾語の曲をかけてるのを見ていくうちに自分もやってみたいとなりました・・・
このオシャレな楽曲がかかるイベントで台湾語ポップスの歴史すべてかけても面白そうじゃん、きっと間違いない!
とはいえ、台湾語なんて少し習った程度ですし、実現可能か微妙だったので、まずは台湾語ポップスの歴史から構想を練り、プレイリストを作ってみてさらに知識を増やす作業を繰り返しました。あとは実物がないとお話にならないので、家に眠る台湾語のCDを発掘してみたのですが、台湾語が収録されているお宝アルバムがわんさか出てきました。こりゃ台湾語DJやったるしかないですよね。
そんなこんなで一週間前以上から楽しみで仕方なく張り切り、やってみたいことが現実にかないそうになっていたわけでありますが、大型台風のせいで東海地方に実家がある私は東京へ帰れなくなり残念ながらキャンセルとなってしまいました(´;ω;`)。
台湾語プレイリスト
とりあえず台湾語の歴史とかも考えつつDJするならこんな感じかなと思って作ったのがこのリストです。せっかくやろうとしていた企画で早く執筆しないと忘れちゃいそうなので先に解説・紹介記事つくっちゃうことにしました。
台北コーリングさんのInstagramに投稿されてるものを遡ってみてみたところ驚くべきことに結構やろうとしていたものと被ってたいたのと解説がかなり詳しい(最近のだけでなく潘越雲、黑名單工作室まで網羅してるのはまじで詳しすぎる)ので引用させてもらうことにしました、連絡したところ嬉しい返事をいただいたので頑張って書くしかないですね。ほかにも家にもあった面白アルバム紹介を交えつつ台湾語歌の歴史を書いていきます。
簡単な台語流行音楽史の解説
時代区分はこちらのサイトを参考にします。ここからは割とまじめな話をしますので少し難しくなります。
参考文献
荘永文.1930年代絕版臺語流行歌.台北市政府文化局.2002年(資料來源:國家圖書館 臺灣記憶 https://tm.ncl.edu.tw/)
台湾は戦前までは日本に統治され戦後は1987年まで国民政府軍の戒厳令下にあったという点である。 そして、日本統治下では日本語 を、国民政府統治下では北京語を「国語」とする政策が取られた。 これが台湾の歌謡曲 と日本の歌謡曲との大きな違いの一つ
である。
日本統治下で歌謡曲が生まれた1932年から1945年
戦後の台湾語歌謡曲 戒厳令下にあった1945年から1987年まで
戒厳令が解かれてから現在まで
(1)1925年~1937年台湾民謡全盛期
①抗日運動の鎮静化
②對台湾政策が特別統治主義から「内地延長主義」へと転換
③各地の民謡の収集開始とラジオやレコードによる普及
④中國影戲、臺灣曲盤
代表曲:望春風、雨夜花、鳥猫行進曲、桃花泣血記
中國影戲、臺灣曲盤
1930年代に上海映画(中國影戲)は黄金期を迎え、女優玩玲玉、周旋などが活躍した。このような上海映画の流行はアジア地域に広まった。1931年に作られた上海映画「桃花涙血」は翌年台湾でも放映され圧倒的なヒットを収めた。これを見た日本コロムビアの台湾責任者である柏野正次郎が劇中歌「桃花泣血記」をレコード化し(臺灣曲盤)ミリオンセールを達成した、これ以降も中国上海の劇中歌を台湾でレコード化し販売することはよく見られるようになっていく。この頃から大衆流行曲の商業化としてのレコード化がはじまっているため、日本のレコード産業が台湾歌謡曲を作るようになる30年代前半を一般的に台湾歌謡のはじまりとしている文献が多い。
望春風
ジュディ・オングさんが日本に来てから受けた父母からの教育と言語について語られています。戦後は、鳳飛飛、テレサテン、蔡幸娟、胡美芳、夏川りみ、一青窈などが歌ってきました。陶喆のアカペラ、R&B改編バージョンもおすすめです。
すでに紹介した、「望春風」と「雨夜花」はこの時代を代表する二大名曲として認知されています、この二大名曲の作曲者は「鄧雨賢」で、台北師範学校でオルガンやマンドリンなどの西洋楽器を学んだほか、日本にも留学し作曲の勉強をされたことがあるそうです
家家もこの曲を最近の《華燈初上》でカバーしていますし、S.H.E [我愛雨夜花]なんかも鄧雨賢由来です。数年前話題になった映画「返校」でもこの二大名曲は使われています。
(2)1937~1945年:皇民化政策の強化、台湾語楽曲の軍歌へ悪編
1937年、慮清橋事件あたりを機に台湾での皇民化政策は加速したとされているが、台湾総督に小林躋造が就任すると台湾人の皇民化を押し進め、文化も戦時体制に組み込まれることとなった。台湾語楽曲も例外ではなく、鄧雨賢作曲の名曲である台湾語楽曲「月夜愁」は「軍夫の妻」に、そして「雨夜花」は「誉れの軍夫」、「望春風」は「大地は招く」、「鄉土部隊の勇士から」は「媽媽我也真勇健」へと軍歌に改編されている。この時代には、台湾人の母語使用が制限されあらゆる場面において強制的に日本語を使うよう命令されたり、姓を日本人のように強制改姓させれたり、日本軍の一員として動員されられたりする時代でした。高砂軍についての楽曲がいくつかあります(あとで解説書きます)。
あとこの二人はコラボもしています
(3)1945年~1987年:戦後の台湾語歌謡曲とPOPSの関係
蒋介石の統治に反発し起きた二・二八事件以降、国民党政府は各方面での統治の強化を実施した。また、反体制派弾圧を目的に共産党スパイ摘発という名目のもとで知識人をはじめとする台湾人を投獄・処刑していった。これがいわゆる白色テロと呼ばれるもので、戒厳令が解除されるまでの期間を白色テロ時代と言います。
白色テロについて歌っているのではないかと話題になったのが、Collageのこの曲、対比構造などが面白かったので、朱宥勳使出人生攻擊!さんの解説をもとに日本語解説記事を作ってます。
政府の検閲によって禁止となった曲
日台歌謡
戒厳令下においては言語面での制限も実施され、国民党政府は「北京語」を台湾の「国語」に制定し、台湾語・日本語を公の場で実質禁止しました。この時代には、作詞作曲家たちは台湾語での楽曲制作をすることを避けはじめ、その代わりに日本語の歌謡曲を台湾語にカバーする傾向が見られました、なので台湾の歌謡曲には日本の要素がたくさん発見できます。一部その中には一部カバー作品を用いて政府批判する作品なども見られました。
台湾語歌謡
二二八事件以降台湾語楽曲制作が減っていき、日本歌謡曲をカバーする傾向が増えていきました。そのような流れの中でも、洪一峰のようなシンガーソングライターは、淡水慕色、旧情綿綿などの曲をヒットさせていて日本演歌カバーではない「台湾語歌謡」が無くなったわけではありませんでした。
台湾オリジナルの「台湾語歌謡」が注目を集めるようになったのは80年代以降と言ってもよいでしょう、洪一峰の流れを受け継いだ息子の洪榮宏が台語歌王として人気になり、彼をはじめ、江蕙(台語天后)、李茂山、葉啟田などの歌手がこの時期に活躍しました。代表曲には洪榮宏「一支小雨傘」、江蕙「風醉雨也醉」「酒後的心聲」、李茂山「今夜又擱塊落雨」、葉啟田「愛拼才會贏(前向きな曲はこの時代珍しい)」「浪子的心情」、蘇芮「酒干倘賣無(サビが台湾語)」などがあります。以上の楽曲は台湾だけでなく、大陸やその他中華圏でも親しまれていた楽曲でした。
この時代においては、「台湾語=歌謡曲=一昔前の世代の音楽」⇔「国語(もしくは洋楽)=POPS=若い世代の音楽」という明確な図式がありました。この対立構造は新台語歌運動を語るうえで非常に重要なので先に押さえておきましょう。
「自分たちの音楽を歌おう」と掲げたフォークソング運動、大学をメインとした校園民歌
代表的人物:
①金韻獎、新格レコード派:李壽全、陳明韶、包美聖、黃大城、李建復、王海玲など
②民謠風の代表的人物:葉佳修、蔡琴など
③どちらも該当する齊豫、蘇來なども
代表的アルバム:
楊弦 - 中國現代民歌集 (1975) / 西出陽關 (1977)
金韻獎紀念專輯 (金韻獎一)1977
葉佳修(「海山派」の代表的人物)「葉佳修專輯」1979
王海玲「偈」1980
包美聖「包美聖之歌」1980
李建復「龍的傳人」1980
楊芳儀 徐曉菁「楊芳儀徐曉菁重唱專輯 (聽泉)」1981
天水樂集「柴拉可汗」1982ー中華風コンセプトアルバム
丘丘「丘丘 (就在今夜 為何夢見他)」1982ー民歌とロック
当時の国内国外事情をはじめにまとめると、台湾の対外政策的には、ベトナム戦争の終結後、アメリカの対中・対台政策に変化があり、台湾はアメリカからの支援を得れなくなりさらには1978年国交断絶までに至りました。また、国内政策的には、1970年代に入り蒋介石から将経国に政権移行し、反大陸・反共よりも台湾国内の発展に注力するようになり、台湾は経済成長期に入っていきました。雰囲気も少しずつ良くなり、美麗島事件、民歌運動などの動きがおこったのもこの頃である。
上記のような変化を受けて、70年代以前は洋楽を聴いていた若者たちが洋楽離れしていき、そして「自身の言語(ここでは主に国語)」による楽曲を歌おうと唱える人が増え始めた。これが民歌(フォークソング)運動の始まりであり、この運動は徐々に大学のキャンパスへと主戦場を移していくことになったので校園民歌とも呼ばれたりします。(※主に国語と書いたが、少し台湾語曲もあり代表的なものには簡上仁「正月調」、木吉他合唱団「拼宵夜」など。林詩達、葉佳修にも数曲。)
1980年代以降の台湾の人々が、政治的不安定さ・アイデンティティー的な不安定さが存在する中で、本省人の故郷とはどこなのか、自身にとって台湾とはなんなのか、あるいはアイデンティティをどこに求めようとしているのか、さらには台湾と中国のあるべき関係とは、などの問題意識に対する答えを当時の楽曲に確認できるので見ていきたい。たとえば、李建復は「龍的傳人」で中国人の歴史を振り返り、費玉清「變色的長城」、余光中「鄉愁四韻」、や蔣勳「少年中國」では少年時代もしくは親が少年時代に過ごした「故郷」への思いを歌い、羅大佑は台湾の外交的孤立状態を「亜細亜的孤児(アジアの孤児)」と歌い(本人はここでは否定している)、察振南は「母親的名叫台湾(母の名前は台湾)」と歌っている。
李建復「龍的傳人」
この曲はすでに説明した当時の民意がすべて詰め込まれたような楽曲で、私たちは何人なのか、どういった歴史を持つ民族なのか、大陸人との関係性、自身の言語でなぜ歌わないのか、といった疑問に対する答えを確認することができる。歌詞は「土地」「人」「歴史」の大まかに三部に区分することができ、「長江」「黄河」という土地という概念からまず「中国」の姿を想像させ、さらに中国に住む民族はどういった特徴があるのかを説明(ここでは「黒目黒髪黄色い肌の民族で、遥遠的東方(つまり西洋から見た極東に何千年前から住む「龍的傳人」と昔の西洋からの視点で説明したような歌詞)している。第三段落では、アヘン戦争など近代に入り西洋による攻撃・支配を受けた歴史について言及し民族主義を強める役割を果たしている。
民歌運動時期には、当時台湾と中国大陸との間交流が無かったため、大陸から移住してきた人たちの故郷に対する思いを書いた曲も多かった。李建復「龍的傳人」も中国大陸人とは共通の言語・歴史・文化を持つことを暗喩?した点においても当てはまるのではないでしょうか。ほかには、費玉清「變色的長城」、余光中「鄉愁四韻」、蔣勳「少年中國」など
80年代校園民歌から台湾新ポップスへ
校園民歌は急激な社会の変化に伴い商業化へと急いだ結果廃れていくことに、また制作陣が海外へと流れていった結果校園民歌ブームは下火になっていきました。
急激な社会の変化に一石を投じた羅大佑
羅大佑は1982年《之乎者也》《鹿港小鎮》《未来的主人翁》などの作品をリリースしている、権威体制や急速な社会の変化に疑問を投げかけた。
例えば彼の代表曲である《鹿港小鎮》は、豊かな都市(台北)と貧しい田舎(小鎮の代表的なイメージがあり、かつ台湾の伝統的な工芸がたくさん残っている「鹿港鎮」)の対比から、都会に夢を持って出かけてきた若者の思いを描きつつ、スケールを拡大し急激な成長によって失ったものはなにかまでを描いている。
発展と共に失ったもの、城市化や文明化への反省
都会に出た若者も、故郷の人たちも急速な発展の中でさまよいもともと持っていた素晴らしい文化を失いつつあることを嘆いた。そして同時に都会に出た若者が故郷に帰ったときに昔の風景と大きくかわってしまった故郷の姿に困惑する姿も描いている。
チャリティーソング「明天会更好」
ポジティブなタイトルのこの曲、We Are The Worldのように力がみなぎってくるような曲になっています。はじめに聞いたときは、なにも時代背景を知らなかったので普通に感動を覚えましたし、当時の台湾の歌手の層の厚さ(バックコーラスの名前見たらわかると思います)を思い知らされた一作でした。この曲はリリース以降大反響を呼び、なにかあるたびにカバーされてきた曲で現在のアーティストも歌っているので知っている方は多いかもしれません。
2019年にロックレコードが公開した情報によると、《明天會更好》の検閲前の歌詞は今我々が知る歌詞とはほぼ異なっていることが確認できます。当時はラジオでも曲構成においてポジティブな曲を必ず入れることが求められていましたし、チャリティソングとしても現実的すぎる歌詞は不適格と判断されたのでしょう。(裏では国民党は選挙のテーマソングとして使おうとしていたという背景も、実際に選挙のスローガンで「要一個更好的明天」を用いていた。)。すべてをポジティブな言葉へと変換したわけではなく「誰能不顧自己的家園 拋開記憶中的童年(一体だれが子供時代の過ごした場所や記憶を捨て去ることができようか)のように外省人が大陸から台湾へと移ったというつらい過去に言及する内容があったり、「青春不解紅塵、胭脂沾染了灰(青春時代は社会を知らず明るい未来に希望が湧くものだが、少女(ルージュは一般的に大人の女性が好む口紅)は大人になり物事の光とそれ以外の側面を知る(超意訳))」という「正能量」と対比する「灰」という歌詞も制作陣の努力によって残っています。
結局、国民党の宣伝に利用されだまされたという思いがあったそうで、これと関係があったかは明言はしてない模様だが(彼の作品も何度も検閲対象で問題とされてきたのも大いに関係ありそうだが)、この年3月にはすでに台湾を離れ香港へと移住して創作活動を行っている。音乐工厂(Rock Recordの香港拠点)
蘇芮の幻の楽曲「酒干倘賣無」
このアルバムは、各界の著名人があつまり厳格な審査を経て選ばれた「台灣流行音樂百張最佳專輯(台湾流行音楽史における100枚のベストアルバム)」では、台湾音楽史において重要な意義を持つアルバムとして二位に選出されている。解説では「羅大佑が1982年にリリースした之乎者也が台湾POPS界を大きく変えた原子爆弾だったと例えるなら、蘇芮のこのアルバムはその大きな爆発後(台湾ポップス)の道筋を示すものだった」と評価されているほど。構成としては李壽全がプロデュースを担ったほか、羅大佑、梁弘志、吳念真などの当時の一流音楽家を集めたアルバムになっている、特に《一樣的月光》は羅大佑が得意とした急速な社会の変化に対する批判を込めた歌詞になっており当時の台湾社会を現している点で評価が高い(作詞は吳念真と羅大佑)、さらに蘇芮の歌唱法はいわゆる台湾の伝統的な女性の柔らかく美しい歌い方ではなく、魂のこもった心から叫びの連続でその爆発的な歌声がこのアルバムの評価を押し上げています。校園民謠から台湾新ポップスへの転換点となったアルバムの一つと言っても過言ではないでしょう。これは間違いなくレコードで聞くべきアルバムで初めて聞いたときは心躍ったのを鮮明に覚えています。
「酒干倘賣無」という曲は、「蘇芮(一般には「搭錯車」電影原聲帶)」というアルバムに収録された曲で、空き瓶を回収する際に使う「空き瓶はないか」という言葉の闽南語に由来する、ほかにも張邸東松による「収酒研」も空き瓶などを回収をする子供の歌など似たテーマの曲は存在する。映画のように空き瓶を回収する子供を思って歌っていると思われることが多いが、どちらかというと自身の父のことを思って歌っていたらしい。こちらの記事によると(一樣的月光 不一樣的蘇芮 強悍而圓融)、Juliaの家族は多くの子供と幸せな日々を送っていたが、父親の事業の失敗に伴い(社会の変化についていけなかった)それ以降質素な暮らしを送らざるを得なくなったそう。酒干倘賣無とはここでは非常に貧しい生活のことを指し、レコーディングの際も家族と狭い部屋で生活した日々を思いながら歌ったそうだ。
さて、ではなぜタイトルで「幻」という言葉を使ったのかについて解説していきます。酒干倘賣無は「侯德健」が作詞した曲で、彼は「龍的傳人」の原作者で「李建复」が歌ったものも有名。酒干倘賣無の産みの親である侯德健が台湾から大陸へと渡ったことを考慮し台湾版のアルバムには収録されていない(参考:Discogs JuliaSu)。なお、検閲・審査があった台湾では収録されなかったこの曲だが、香港版のアルバムには収録されています(ソースは所有しているLPより。)この時期の台湾語楽曲で歌謡以外のものは無いに等しいのでまず一作目として紹介させていただきました。
香港版には収録されているこの楽曲、相当人気だったようでこんなものも。アランタムとのデュエットの後、一番最後に流れるのですがすわりながらでもこの声量と歌唱力、、、、
民歌とロックの過渡期~丘丘「丘丘 (就在今夜 為何夢見他)」1982
数多くの名作を残した「邱晨」は陳明韶、包美聖等の女性歌手の作品を手掛けており、代表的な校園民歌には《小茉莉》、《風告訴我》、《看我!聽我!》などがある。そして、ボーカルはあの「金智娟(娃娃)」で誰が聞いてもすぐわかる特徴的な歌声がここでも確認できる。エレキギターを採用し、その強烈なメロディと娃娃の特徴な歌声は一世を風靡しました。
(4)1987-戒厳令解除後の台湾語歌
新台語歌運動:政府が制定した国語ではなく、禁じられてきた母語(台湾語から、客語やさらに原住民の言語など含め)によって新たな台湾音楽を創作することを目的とした運動。
新台語歌運動時期が指す期間:一般に黑名單工作室がアルバム《抓狂歌》リリースした1989年を起点に、89年-95年の6年間を指す。水晶レコード設立の1987年、や潘越雲が88年にリリースしたアルバムもこの運動の黎明期として紹介する文献が多い。
代表的歌手:陳明章、朱約信、林暐哲、林強、伍佰
代表的作品はあとで紹介しますがこんなとこ:林強《向前走》(1990)、陳明章《下午的一齣戲》(1990)、羅大佑《原鄉》(1991)、陳昇、黃連煜《新寶島康樂隊》(1992)、江蕙《酒後的心聲》(1992)、陳芬蘭《楊三郎記念專輯》、《少年吔,安啦!》原聲帶、伍佰《愛上別人是快樂的事》(1992)
それ以降台湾語曲をリリースしてきたアーティスト:Mayday、蕭煌奇、秀蘭瑪雅、李英宏、鄭宜農、旺福、盧廣仲、玖壹壹、蘇打綠、閃靈樂團、拷秋勤、農村武裝青年、滅火器樂團、濁水溪公社、董事長樂團、茄子蛋、Random隨性樂團、美秀集團、血肉果汁機、拍謝少年、Theseus 忒修斯、淺堤。
新台語歌運動あたりからのアーティスト解説と台湾語楽曲が収録されたおすすめアルバム紹介
水晶唱片クリスタルレコード
西洋音楽を好む者たちの集いから生まれたもので、もともとは海外のレコードの輸入を行い、西洋音楽を愛する者たちの聖地として始まった。そして彼らは臺北新音樂節(クリスタルレコード主催、1987年-1990年の間に四回開催された)クリスタルレコードはこうしたイベントを通じてオルタナティブな音楽を追求するものを発掘していった。
第一回(1987):梁銘越、陳世興、黃韻玲、紀宏仁、達明一派(香港)、紅十字合唱團(ボーカルは趙傳)、薛嶽、張洪量、Bones & Teeth(ボーカルは林𬀩哲)等
第二回(1988):Double X、Bones & Teeth、阿電與阿草(のちの黑名單工作室)
第三回(1990):陳明章、伍佰、葉樹茵、黑名單工作室、黒鳥(香港)等。
第四回(1990):演出者多為傳統民謠、戲曲與臺灣新民謠。
などたくさんの非主流のアーティストを発掘したのがクリスタルレコード、ほかにも、最後の禁歌処分を食らったパンク・ロック歌手の趙一豪 (Sissey Chao) 、音樂詩人の雷光夏、客語Popsシンガーソングライターの謝宇威、金門王、李炳輝、台湾メタルバンドのスターである閃靈、UKロックを取り入れた1976樂團、台湾語ロックのシンガーソングライターの流氓阿德などがいる。
クリスタルレコードの任將達はインディ音楽の発展への貢献が評価され、1998年、第九回金曲賞でそれまでの最年少である42歳で「特別貢獻獎」を受賞した。審査員の李建復は「所有主流都是從非主流變過來的,他願意對非主流創作人雪中送炭,且注定幾乎每張唱片都要賠錢,當然值得鼓勵(すべての主流音楽はもともと非主流の音楽から生まれたものであり、そのもととなる非主流音楽の音楽家たちを応援し、そして困窮しながらも創作活動を行う彼らにお金も支援した任將達は当然尊敬の念を送るべき人物であり、この賞に値する)」。と述べた。
ただ理想を追い求め続けるのは難しく、そのためにお金を工面して応援した結果,給料が払えず、歌手も版権による収入も得られず悪循環に陥いることも指摘している(ここでは雪中送炭という語の対義語である雪上加霜(火に油を注ぐのような))。財務状況が危機的な状況に陥った後に「水晶萬人後援會」を立ち上げ一時的には回復したものの、結局2006年にクリスタルレコードはその歴史を終えている。
①潘越雲
戒厳令解除後の88年作のアルバム、一般に指す新台湾語歌運動の時期には当てはまらないものの、新台湾語歌運動の先駆けである一作であることは間違いなく、そのためよくこのテーマについて語られる際に一緒に紹介されている。この時期に珍しい台湾語アルバムで、これは滾石(ロックレコード)による初の台湾語アルバムという試みであった。ロックレコードの推薦文には「我們的動機,單純得不過只想做一張真正感人的台語唱片罷了。(ただたんに感動する台湾語のアルバムを作りたかっただけだ)」と書かれている。
このアルバムには多くの有名歌手・作詞家・作曲家が関わっていて、李宗盛、黄韻玲、周華健、郭小霖、鄭華娟、林邊、吳念真などの名前を見つけることができる、せっかくなので今から紹介していきたい。
プロデュースには、李宗盛、郭小霖(香港の編曲家、80年代のスターたちのプロデューサーとして多くの名曲を生み出してきた、日本ではマッチのスニーカーブルースをカバーしたのでも有名かも)の台湾香港の名プロデューサーが入っているほか、鄭華娟(張清芳の加州陽光やMen's Talkなどが有名、個人的なおすすめは黄丹萍に提供した「相思是一種美麗」。台湾語アルバムや80年代女性歌手のアルバムには必ず彼女の名前をみつけることができると言っても過言ではないほど出現頻度が高い)、黃韻玲(近年Citypopの文脈で注目されているアーティスト、關不掉的收音機や藍色啤酒海)など名トラックメイカーや、作詞に林邊、吳念真などが入っている。父母や故郷を思ったいかにも”台湾語アルバム”らしいコンセプトかついかにも80年代の伝統的台湾女性歌手の柔らかい美しい歌い方であるにも関わらず、今聞いても古臭くはない不思議さが味わえます。
ロックレコードの宣伝文には感動する台湾語アルバムを作りたかったとは書いてありますが、アルバムの中の文章にはこのような故郷や親への思いも綴られています。戒厳令下の状況についての思いも確認することができるので非常に歴史的にも重要なアルバムと言っても過言ではありません。
台北コーリングさんは超レアなCDをお持ちのようで楽曲の解説もされています。黑名單工作室の紹介あたりにこのCDも紹介されていましたが、こっちまで網羅している方はあまり見たことありません。
潘越雲のように国語POPS歌手として活躍していたアーティストで、戒厳令解除後すぐに台湾語アルバムを出した例は珍しいですが、しばらくしてから台湾語アルバムを出したPOPS歌手もいます。台湾語に対する思い入れもそれぞれなのでアルバムのコンセプトも全く異なります。いくつか有名なのを軽く触れておきます。
(2)陳淑樺 92年淑樺的臺灣歌
曲名を見る限りでは台湾歌謡でよく見かけるようなタイトルが多いわけで、台湾への思い、故郷への思い、家族への思い、台湾語への思いなどが込められています。シティーガールの私も持っている台湾への思いというプロモーションが打たれていました。
実際に曲を聴いてみると彼女の歌謡曲への独自の理解があり、ジャズ風のアレンジなど素晴らしい出来になっているのが分かります。残念ながらこのアルバムの出来が良すぎたからなのか台湾語アルバムはこれ以降リリースされることはありませんでした。結構レアなので(一枚4000円くらいする)見つけたらぜひ買ってみてください。
(2)林慧萍 92年臺灣國語
林慧萍は1982年に1stアルバム《往昔》でデビューした台湾の歌手です。タイトルと同名の《往昔》という曲は松田聖子のOnly My Loveをカバーしたもの。82年と言えば日本でも数多くの女性アイドルが誕生した年として「花の82年組」という言葉がありますが、台湾でも江玲、沈雁、金瑞瑤、そして今回紹介する林慧萍が誕生した台湾アイドル黄金期でもあります(ちなみに台湾では彼女たちは第二世代のアイドルとして位置づけられ、台湾早期四大玉女歌手と呼ばれたりしています。)。この時期には当時の日本のアイドルブームに乗っかり多くの楽曲がカバーされました。
時代の潮流に乗っかった彼女ですが、実は92年に台湾語アルバム「臺灣國語」を出しています。台湾語といえば歌謡、古く年配の世代が聞いている、といったイメージが当時あったり、POPS=国語歌手、歌謡=台湾語歌手と言ったすみわけがされていたわけですが、そんな固定概念を払拭するかのような現代風の曲がたくさん収録されています、詳しく見てみるとこのアルバムには当時流行っていた臺灣國語の曲に台湾語の歌詞をつけてカバーした曲が収録されているいます。プロデューサーは鄭華娟ですでに紹介しましたが、潘越雲《情字這條路》のほか、張清芳《加州陽光》《Men's Talk》、娃娃《後悔》、陳淑樺《聰明糊塗心》、滾石群星合輯《快樂天堂》などを生み出した名プロデューサーです。
多情会害:謝謝你的愛 劉德華
再會男子漢:北風 張鎬哲
藍色Kimogi:舊愛難了 張清芳
傷心Party:讓我歡喜讓我憂 周華健(Chage&Askaカバー)
愛情的摩托車:往昔 林慧萍(松田聖子カバー)
媽媽恰意的女婿 :想哭就哭 姜育恒
愛著你真煩惱 :我是如此愛你 林慧萍
停電的X'mas:想你會想我嗎 李之勤
唱歌家己聽:你在他鄉 剛澤彬(桑田佳祐カバー)
②黑名單工作室ブラックリスト
台湾語で歌っているが、ブラックミュージック、レゲエ音楽、ラップ、ロック、台湾の民謡や「雜唸仔」などこれまで台湾語の楽曲には見られなかったような音楽スタイルを取り入れている、メンバーは王明輝、陳主惠、アメリカ人Keith Stuartとなっているが、ほかにもゲストメンバーとして陳明瑜、陳明章、許景淳、林美𫞩、胡德夫、林暐哲、葉樹茵が参加しています。多くのアーティストが関わっているので楽曲の幅は結構広いのが特徴、それぞれの特徴をこれ以降個別で紹介もしていきます。
このアルバムは、①従来の台湾語楽曲のように寂しさを表現したり、運命を変えることができず嘆き悲しむようなネガティブな歌詞ではない点、もしくはその反対のようなポジティブを通り越して楽観的な視点を持つような「愛拼才會贏」を代表する歌詞とも異なる点、②従来の国語歌曲のPOPS=浪漫、誇張した曲という図式ではなく、ただ台湾の生活をそのまま表現した歌詞になっている点、③また多くの国語曲がただ西洋音楽の要素をそのまま取り入れただけでだったのに対し、台湾や日本などの音楽要素も生かしつつ新たな台湾語ポップスへと昇華している点などが特徴的です。この辺はCDの解説書にⅰ使用法とⅱ使用範囲を定められてますので(まるで薬の説明のように)そこを読めば彼らがどんな思いを持ちどんな人のために聞いてもらおうかとしたかを読み取ることができます。
ブラックリストの楽曲はロマンチックなものでもなく、そしてまた悲哀なものばかりではなく、台湾の生活の一部を切り取った現実的なテーマが曲の主題となっているものが多く、そしてその主題はミクロなものを拡大していってマクロの視点へと拡大していく方式がとられているように感じる。例えば楽曲に出てくる人物はタクシーの運転手であったり、農民、老兵、会社勤めの人、警察など、このようにごく普通の人物を扱っており、彼らはそういった人物の心情の描写から、台湾社会における社会状況や、政治、教育、交通など各方面の様々な問題について考察し、時には批判を行っていることが歌詞を見て読み取れる。
タクシーは中国語がかなりややこしいので一応解説いれます。台湾華語では「計程車」もしくは「小黃(91年以降黄色に制限されたため)」と呼び、香港では的士(Dik1Si6)、大陸では「出租车」が多いですが「的士(Di2Shi4)」も通じます、タクシーを呼ぶの時は「打车・叫出租车」もしくは「打的(Da3Di1/2)」という表現をします。運転手のことを「運匠先生」とここでは書いてますが、今は师傅とかでOKです。
戒厳令下における市民とタクシーの運転手の会話からその当時の様子を読み取ることができる良作、感想で行われている会話は俳優の「文英」と「張柏舟」によるもの、本当に当時行われていたであろうタクシー内での会話を聞いているようでより一層リアリティさが増している。例えば、①台湾交通網のカオス状態を表現する歌詞(ⅰ塞車啦!你不知道台北的交通哦!、ⅱ你擠我擠 沒人要讓 躋躋做一夥、ⅲ遇到青燈 車駛未行 心內歸把火 半點外鐘 才跳一下 賺錢那矣多 交通電台 有在放送 市內路壞過 叫咱大家 哪無代誌 勿當入來轉 交通警察 乎人罵卡 滿臉全豆花 遇到黃燈 油門踏落 咻一下就乎過、ⅳ駛卡慢的 駛卡慢的 運匠先生 駛車勿當親像那個飛行機在飛)からはあまりにも混みすぎてカオスすぎる状態と、金を稼ぎたいのになかなか進まなくイライラする様子が読みとれます。②タクシー運転手の賃金が低いこと、80年代から90年代にかけて高度経済成長を遂げたにも関わらず貧富の差がひどいことについて表現する歌詞(ⅰ錢要乎你賺你啊未 阮家有裕人,不願啦!、ⅱ看人BENZ在遊街 咱的命哪會呀呢衰、ⅲ為著生活 大街小巷 我拚卡強要死)からは、金持ちとの居住区が全く異なること、外資の力を得て金儲けに成功した人と、昔からの生活を続けるしかないしがないタクシー運転手との違いが読み取れる。③それでも悲観になるのではなく日々一生懸命生きていることを表現する歌詞、未来に向けて頑張ろうと励ます歌詞(ⅰ好家在咱是一個樂天派 作風落雨 隔甲甘苦 嘛著駛 正當的頭路無驚乎人知 三更半眠要去叨位 做你來、ⅱ無管長途短途我攏四界載
運匠的兄弟呀 大家著打拚喔)からは昔の台湾語の歌詞のように悲観すぎるわけでもなく、国語の曲のように少し現実離れしてるわけでもなく、現実に即した表現をしているのが分かります、こういったのも当時の人から共感を得れた大きな要因でしょう。
民主阿草
この曲は民主運動が盛んだった当時、「民主」を謳うはずの国民党がデモを抑えるために多くの警察や憲兵を動員し恐怖で押さえつけた様子を批判したもの。「透早出門天清清,歸陣散步來到西門町,看到歸路的警察與憲兵,全身武裝又擱向頭前,害阮感覺一時心頭冷,害阮感覺一時心頭冷,咱來借問ㄟ警察先生,是不是要反攻大陸準備戰爭……」という歌詞から始まるが、朝からそんなに全身武装して見回っているが、もしかして大陸を取り返しに戦争でも起こすつもりかと皮肉を込めたものになっている。そして後半は極権について、萬年國會(老國會、老法統)が牛耳り政治が彼らの思うががままになっていることを指摘し(91年に解散している)、最後にそんな台湾の非民主的な様子に「全世界攏在笑(世界中が笑っている)」と直接批判。
「mad songという意味のアルバム名のとおりガヤガヤとカオスな雰囲気で、土着的な空気から自由への喜びを感じられます」と台北コーリングさんは紹介されています、「抓狂 MAD(←台湾語、普通語、広東語の発音記号全部頑張って書いたので是非リンクの記事見てください)」という歌ももとはと言えばタイの楽曲で喜びとか笑いに関する歌なので、レビューの「自由への喜び」というコンセプトに適しているなと納得。鳥さんが飛び跳ねているのも解放されたことによる喜びの表現の一種なのかも(笑)
7年後にリリースした、2nd「搖籃曲」もかなり洗練されシンセのきいたものになっています。
ここに写真入れる。
2019年、ブラックリストは金曲獎で特別貢献賞(台湾音楽史における大きな影響を与えた人物・グループに与えられる賞)を受賞したわけだが、ステージ上で何も語らず、黑名單工作室に関わったミュージシャン等の名前が書かれたボードを一枚一枚掲げ、最後に「我在亞洲 我反美帝(アジアにあり、アメリカの帝国主義に反対する)」というメッセージを掲げ大変話題になった。このような主張を表している皮肉の聞きまくった曲があるのでよかったら聞いてみてほしい。
審査員の陳珊妮が「他們的歌曲類型,包含臺灣民謠、饒舌及搖滾等,特別是他們的《抓狂歌》專輯,這三十年對臺灣母語音樂、樂團形式都是先鋒。這團也與金曲誕生同一年,影響今年入圍和所有音樂人至今,所以他們值得這個獎項。(彼らのアルバムは様々なスタイルの曲があり、台語歌という形式、バンドという形式において先駆け的存在であった。金曲賞が始まった年に誕生した彼らは、今まで受賞してきたアーティストたちにも大きな影響を与えてきたので受賞に値する)」と述べている。
(1)林暐哲
林暐哲は1987年にBones&Teethを結成しクリスタルレコード主催のイベントに参加、ブラックリストにゲストボーカルとして参加し1stアルバムで高い評価を得た。さらに自身は「Baboo」というバンドを結成しここでも風刺の効いた歌を台湾語で歌っています。ブラックリストの時に存在感を示したラップも皮肉節も健全どころかさらにその力を増す次第。皮肉の聞いた曲もあったりするがポップな曲が多く彼らの衣装もかなりポップ。
プロデューサーとしても力を発揮しており、陳明章 《下午的一出戲》、林強 《春風少年兄》など名台湾語アルバムとして知られるアルバムにも大きく関わっている。そのほかにも楊乃文 《One》《Silence》《應該》、陳綺貞 《讓我想一想》《還是會寂寞》、蘇打綠などのアルバムのプロデュースもされている名プロデューサー、SodaGreenを見つけ出したのも林暐哲(一時期もめていたのも林暐哲)。Babooメンバーの「李欣芸」も良く名の知られた名プロデューサー《少年吔,安啦!》陳明章 《下午的一出戲》など
(2)陳明章
前述したブラックリストのメンバーである「陳明章」、彼のスタイルは台湾の伝統民謡やバラードなど。歌手としてはもともと校園民歌の流行期には木吉他合唱團に加入したりも(歌唱力が無くてやめさせられたそうだが)。彼の名前は映画の劇伴音楽でよく知られており、1987年《戀戀風塵》のOSTがフランスナント三大陸映画祭で最優秀劇伴音楽賞を獲得したのを皮切りに、侯孝賢も映画を撮影する際「陳明章」に依頼するようになり、その後の1993年《戲夢人生》もベルギーの映画祭で最優秀劇伴音楽賞を獲得している。
(3)許景淳
クラシックなどに触れて育った実力歌手で、齊豫や蔡琴などと同等の評価を受けている、女性歌手の教科書と評価されることも。
1991 《真想要飛》
1991年 第3屆金曲獎 最佳年度歌曲 〈嘸通嫌臺灣〉 提名
最佳方言歌曲女演唱人獎 許景淳 獲獎
最佳方言歌曲作詞人 〈嘸通嫌臺灣〉/林央敏 獲獎
最佳作曲人獎 〈春天從愛情來〉/李泰祥 提名
最佳編曲人獎 獲獎
1993年 第5屆金曲獎 最佳演奏專輯製作人獎 陳揚、許景淳、陳明章 獲獎 《戀戀風塵》
1995 《春天的花蕊》
☆1996《天頂的月娘啊》
第8屆金曲獎 最佳流行音樂演唱唱片獎 《天頂的月娘啊》 提名 《天頂的月娘啊》/臺灣滾石唱片
最佳方言女演唱人獎 許景淳 獲獎
最佳作曲人獎 〈天頂的月娘啊〉/潘芳烈 提名
最佳作詞人獎 提名
最佳唱片製作人獎 陳進興、劉亞文 提名
最佳國語女演唱人獎 許景淳 提名 《芬芳》
③林強
「向前走」は、夢を実現するために台北に向かう地方の若者が見送る人に別れを告げ、まだ先が見えない未来に向かって前進するという曲です、「上を向いて歩こう」とも訳せそうなこのタイトル、田舎出身の若者が、大都会で努力奮闘する心情を歌っており現実はそんなに厳しくなさそうなことも後段で示唆されています。ただ、台湾語歌謡=悲しいテーマという当時の常識を打ち破り、ポップス調でそれでも頑張って進もうと人々を励ましたこの曲は台湾語歌曲の新時代を築いたとも言えるでしょう。そういった経緯から若者たちの共感を得て、戒厳令解除後の新台語歌運動のアンセム的曲になりました。
④羅大佑~台湾人とは?台湾人にとっての故郷とは?~
羅大佑に関しては、音楽史の解説の中で「急激な社会の変化に一石を投じた羅大佑」として少し触れており、社会派の彼が台湾語ポップミュージックの制作を行うのは自然な流れ。ただ、「チャリティーソング明天会更好」の項目でも話したように、彼は台湾の制作環境に嫌気がさし、アメリカ・香港へと逃げた形となっています。当時の台湾人からは台湾を捨てたと批判する人もいました。また、もともと広東語で歌った曲「皇后大道東」を台湾語にセルフカバーしているのもあり、新しさが無いとして音楽的には評価が低いアルバムとされている点も説明しておきます。
さて、当時の台湾人からの批判も強く、さらに台湾音楽界からの評価も低めなこのアルバムですが、私はそうは思いません。93年に出版された「エイジアンポップミュージックの現在」という書籍をお持ちの方は104,110ページを参照してほしいです。台湾を出た外省人である羅大佑にしか描けない「原郷」への思いがこのアルバムには詰まっています。
⑤陳昇、新寶島康樂隊
台湾人とは?
に対する二人の意見が載っていたので解説します。
昇:「原來叫『寶島合唱團』,後來遇到高人指點:現在應該是『新』寶島了!想想也是,我們所作、所唱的,都是現在的台灣,早就不是原來那個寶島了。我也搞不清楚為什麼會變成『康樂隊』?像『賣唱』、『王祿仔』、『歌劇團』一樣都有討生活的意味。我們唱歌、作音樂也是在『賺食』嘛。」
煜:「我覺得不是講台語就是台灣人,我覺得你在這長大的就是這的人,土地是最重要的。」
昇:「這就是台灣啊!台灣不一直都是這樣?在我的創作邏輯裡,我們的音樂就是一種生活,我們採擷的對象就是來自周邊的人......我們從來不打算給人家任何跟政治、教育、執政者抵觸的東西,我們只準備告訴人家一個事實而已,我們怎麼活著,它就是怎樣。為什麼大家都不願意去面對事實呢?」
煜:「...除了會講客家話;對所謂的客家也沒什麼瞭解,我們都是鄉下人不會去想這些,父母也不會去體醒你是客家人,也許知識份子會吧?一直到我開始寫客家歌,我才真正去接近一些客家素材。我真正意識到語言是很重要的,語言裡面不知不覺會傳達一些沒被記載下的文化。不是因為我寫客家歌就表示我對客家文化有多瞭解,只不過我是客家人,我會客家話......說使命感沒有是假的,但講多沒有意義。現在有很多客家人組織、機構要為客家人爭認同,可是用一些比較硬、比較嚴肅的方法要人接受是比較難的 -- 或許音樂比較容易吧!」
昇:「其實我和很多人一樣,本來對客家人是有一些成見的。接觸之後有了更多的瞭解,覺得其實牽涉的不只那麼單純。有太多的地理、心理、時代因素在裡面......有瞭解就會覺得還不都是人?沒有好壞只有不同。有一個笑話說有個白人說:『我生平最討厭兩種人,一種人是有種族歧視的人,一種人是黑人』。其實很多成見是我們不自知的。台灣那麼小更應該彼此多瞭解,我想就從音樂開始吧!」
⑥猪頭皮朱約信
ハーレムユー
雷光夏
金門王與李炳輝
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