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鍋とプリン

ぐつぐつと土鍋ごと揺れる程に煮たっている水炊きを連想した。もうもうと湯気が上がり、ぶくぶくと透明な水泡が弾けては生まれ…

何故、ぐらぐらと煮立つ鍋を連想したのだろう。バカバカしい。わたしは頭を振っておかしな連想を払うと、浴槽に沈むそれを改めて見た。

水面にゆらゆらと揺れる黒い髪の間、カッと見開いた眼は虚空を凝視しており、光を失ってなお強くわたしを射抜く。そうか、この目玉の強さが、ぐらぐらと煮立つ鍋を連想させたのだ。

急に足元から怖気が走る。プップッと脹脛が粟立つ。喉の奥に迫り上がる小さな悲鳴。濡れた手で思わず自らの口を塞ぎ、口元にその冷たさを感じた瞬間、わたしの胃は捲れ上がるようにして、逆流を始める。

胃の中のものが全て出尽くしてなお、胃は大きく痙攣し、浴室の床についたわたしの手は真っ白だ。わたしの方がむしろ死体のようだ。ぐらぐらと煮立つ鍋のような怒りを内包していたのはわたしの方だった筈なのに、なぜ射抜くような目で睨み付けられなければならないのか。

唐突に悔しさがこみ上げ、わたしは浴槽の縁に手を置いて、無理やり身体を引き起こす。目の端に、強引に押し込められ沈められた女が映る。胃の奥がまた大きく痙攣を始めるが、もう吐き出せるものはない。唾液も枯れ果てた。

わたしは浴室を出る。タオルで重い身体を拭い、ぐっしょりと濡れた服も下着も脱ぎ捨てる。ベシャリ、と濡れた服が床で嫌な音を立てた。震えが止まらない。歯がうまく噛み合わずに、ガチガチと音を立てる。鏡に映る死んだ魚の目をした裸の女の真っ青な唇に、赤い血が滲む。ホラーだ。

何度も何度も丹念に手を洗う。気を抜くとあの女を押さえ付けたときの、ザラリとした髪や頭蓋骨の硬い感触が蘇る。とにかく泡だらけにして何度も何度も手を擦る。鉄の臭いと白い花を思わせるハンドソープの匂いが混じる。

ガチャリ、玄関の鍵の開く音がする。「プリン買ってきたんだけど、食べるだろ?」、男の楽しげな声と床の軋みが少しずつ近づいてくる。

また手を洗わなくてはいけない。

洗面台の脇にある、鈍く光る剃刀に、わたしは疲労で重くなった手を伸ばす。

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