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月に吠える

女が水蜜桃をしゃうしゃうと、一心不乱に食べる音だけが響く。電気も点けず、膝を抱えるようにして、女は椅子の上にいて、水蜜桃を食べている。薄桃色の皮に前歯を立て、しゃくるようにしてその実を齧り、しゃうしゃうと咀嚼する。鼻先も唇も顎も桃を持つ手も、桃の汁でぬらぬらと濡れ、嚥下するたびに大きく波打つ喉を、月の光が煌々と照らしている。辺りに漂う甘い香りは、どこか腐臭を連想させる。

女は美しかった。痩せぎすの身体の割に艶のある滑らかな肌を持ち、大きな目と真っ黒な瞳が印象的な女だ。行儀が悪く、口の利き方も知らない、荒んだ育ちの女のようだが、女といると私は気が休まるのだった。

女は私の土産である水蜜桃を食べ終わると、ずり落ちたキャミソールの肩紐をそのままに立ち上がり、流し台へ向かう。シンクにバタバタと乱暴に跳ねる水音が、何故か顳顬の痛みを慰撫するように鎮めていく。

女はペタペタと裸足のまま歩き、私のいるベッドに戻ってくる。ググッとスプリングの沈むくぐもった音と共に、サラリとしたシーツの間に滑り込む。ふんわりと甘い水蜜桃の匂いがたつ。私は女を近寄せて、その冷たい頬を舌で掬うように舐める。洗い残しの水蜜桃の果汁の味がした。女は目を閉じるとそのままスウスウと寝息をたて始める。青白い月の光が、女の黒く長いまつ毛の影を作る。ふいに女は口から大きな息を吐く。甘い腐臭にも似たあの水蜜桃の匂いが、またふわっと広がる。

桃娘(とうにゃん)という都市伝説がある。乳児の頃から桃だけを食べさせて育てた性奴隷の、その身体からは常に甘い匂いがしたそうだ。栄養が偏るために桃娘たちは長生きすることができず、夜伽で命を落とすことが多かった、とも。

私はベッドサイドに置いていた錠剤を口に含み、女を抱き寄せたまま目を閉じる。桃娘の夢が見れるだろうか。女のひんやりした身体は青白い月の光で更に温度を下げているかのようだ。私の身体もじきに同じように冷たくなるだろう。

もう寝息も聞こえない。

水薬を注入した甘い甘い、腐臭にも似た水蜜桃。

さよなら。

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