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無題


最近はアートにハマっている。アカデミックな技法には明るくないので、赴くままに家に溜まっていたポストカードなどを画用紙に貼り付けて、それに絵の具やペンで加工する程度のことであるので、アートと言うよりも単なる図工である。
自己満で構成もないけれど、額縁に入れてみると意外に様になる(額縁は100均のもの)

こういうことをしていると必ず「意味求め野郎」が出てくる。

「何のためにしてんの?」

そう聞かれると、ふと何故こんなものを作っているのか?何のために?と考えてしまう。


いつからだろうか?
意味とか意義とか目的だのに縛られるようになったのは。理系大学に毒されてしまったのだと思いたい。


ベットで横になると強烈な虚しさと寂しさと諦念の波が押し寄せてきて、その大波は水飛沫を上げて今も収まる気配はない。

ふと1日を振り返る。今日1日生きた意味と明日1日生きる意味を考えながら目を閉じる。その意味が見つからなくて音楽を聴く。最近AirPodsを買った。(しかもproである)ノイズキャンセリングという周りの雑音を消してくれる機能がある。先程までの世界から切り離され、この世界には自分しかいないような気になる。とても、心地が良い。自分は星野源に傾倒しているから、無意識下に彼の楽曲を選択した再生する。すると、彼の素朴な声が発する強烈な言霊によって今日1日の生存意義を獲得する。天才的な間奏があけ曲が終わる。彼の曲が明日も聴けるのであればと、諦めて眠りにつく。


生きていくのはすごく大変なことだと最近気がついた。なんの痛みもなくこの世からふっと消えられたらどれだけ楽であろうか。消えたときに何人の人が悲しんでくれるかを想像すると、また虚しくなる。
さみしいと叫ぶには自分はあまりにもくだらない


心の内がどれだけ暗くても、人前では笑顔を作れてしまう自分が怖い。この世は笑顔のようで色々ある。みんなで偽りの虚構を作り上げてる。そんな世界を、目の前を全部嘘だと気づいたとき笑みが溢れた。みんなが作る嘘を腹の底から信じて、過度に期待し、落ち込み。自分の滑稽さに笑わずにいられなかった。

悲しいことや辛いこと、悔しいことばかり鮮明に憶えているのは何故だろう。嬉しいこと、楽しいことはすぐに忘れ去ってしまうから、辛い日々が続いていくようだ。虚しさの大波が収まったら。声をあげ飛び上がるほど嬉しい日々が起こる予感がする。


どうせ忘れてしまうけど、そんな日は笑顔で迎えたい。

最後まで読んでいただきありがとうございます!! 東海道中膝栗毛の膝栗毛って「徒歩で旅する」って意味らしいですよ