僕の2011

(以下は2011年末〜2012年初めにフェイスブックのノート書き起こしたものを転載)

2011年といえば
1月8日に母と妹がひどくもめながらフィジーに留学に。
1月30日に初めて勝田マラソンに出て3時間39分だった
「こんなもんなのか」と思った(いろんな意味で)

当時、仕事を探していた時期だったので、
2月から知り合いのつてで運送業の補助を始めた。

お金が良いので、とりあえずで始めたものの、
荷物を持っているのに足や拳が飛んでくるわ、なんやかんやでよく怒られていた。
ほこりっぽい鬱屈とした時間だった。

その頃は音楽はなんだか何聴いてもピンと来なくなってたので週に10本くらい映画を借りて夜、観ていた。

生っぽくて力をくれるものを感じたくて
3月8日に90eastで竹原ピストルを見に行った。
面白かったけど、欲しいものはこれじゃなかった。

僕はもうやめたかった
すこしでも役立てることないかなと思って
3月10日に献血に行ってきて
骨髄バンクのパンフレットを眺めてた

3月11日は家でヤフオクに出すジーンズを写真に撮っていた。
たかが知れた値段だったが退屈よりは価値があった。
揺れが始まって最初はCDの入った棚をおさえていたが
大きくなっていく揺れに
「これはマズイんじゃないか」と手を離し1階へと降りた。
家の柱の構造や立ち位置やしなり分かるような揺れ。

ここ数年、家にいる時間の多い兄が少し動転していたので
「大丈夫だから、慌てず外に出な」と。
たぶん兄のおかげで冷静にいられたように思った。

隣のアパートの瓦がザーッと全て滑り落ちていった。落ちた先にあった車の窓ガラスなどが割れていた。

揺れる際のガシャンガシャンという皿や家財が割れる音よりは家の軋みや地鳴りが心配だったように思う。

周りにある畑や家から埃が舞い上がっていた。
外に出ていた人はザワザワと話していた。
住宅地である家周辺の通りは
塀や石段が崩れ車が通れないでいた。

買ったばかりの地デジ対応テレビが
うんともすんともいわなかったので
買った早々、自分のカバーが足りずに壊してしまったと思った。停電だと気がついたのは少し後だった。

周辺の建物は東側には2階建てアパート、
南側は見晴らしの良い畑と田んぼ、
西と北に家が隣合い、
同じ規格で建てられた家が5軒固まってある。
その一角に住んでいる。

普段は回覧板を回したり、挨拶する程度だったが、周りには70代くらいの家の方がいるので気になって見に行った。

声を掛けに行くと怪我などはない様子だが、ひどく動揺していた。
そこの年配の方々と家族との連絡は兄にお願いし、

「車も通るし道を通すようにしないと大変だ」
と思ったので(あまり考えず、目についたものをやっただけ)スコップやらを持って、道だけ通そうと通り沿いの人と石などをどかして付近を見回して帰ってきた。

中学校は避難所にはなっていなかったようだ。

そして確か30分後くらいに福祉関係の研修をやっていた母が県庁から帰ってきた。

市内は信号が消えパニック状態だということだ。
どうやらこれは街中で大変なことが起こってるなと少しづつ認識し始めた。

家の中も大変なことになっていて、
棚のものの大半は飛び出しているか壊れている状態だった。

屋根は瓦がいくつか落ち、1階のプラスチックのトタンは80cm四方ほどの穴ができていた。
瓦が落ちたことで他の屋根やトタンなどにも破損があった。

母と兄は動転していた。
白河に単身赴任の父と連絡がつかず安否が分からなかった。

そんな周りの動揺のおかげでといってはあれだが
すごく冷静でいられて、

今から夜までの明るい時間では大したことができないから、
余震に気をつけて、ワレモノがあるから靴かスリッパを履いて
手袋をして家の中の整理をして必要なものを確保するということと
誰かが地区を一回りして状況を確認して
暗くなる前には報告しあいながら夕食を食べようと周りの家に伝えた。

5時半には周りの家の方と喋りながらご飯を食べた。

ほとんどの家が車中泊にしたと思う。

夜も少し歩いてまわって
何年も話しをしたことのない
同級生のお母さんと話しをした。

警告アラームと余震と街中のサイレンと災害情報を伝えるラジオ。
車のガソリンも半分ほどしかなかったので、
余震が起きてはエンジンをかけ、
温めては消すの繰り返しだった。

「仕事どうなるんだべ、やらないだろうなこれじゃ。まあ明日見に行けば分かるか」

などと思いながら、幾重にも重ねた布団に包まり、
寒さもあって浅い眠りを繰り返した。
星空がやたら綺麗だった。


3月12日朝、ろくに眠れなかったのと
せまい車中では疲れるなと思って5時半には起きていた。幸い米はあったのでカセットコンロでご飯のしたくをした。

今日はさすがに仕事はないだろうと思ったものの
電話も通じなかったので確認のためだけに
直接7時半に職場に行ったところ
この時間15台ほどある配送車が10台ほどしかなかったこととすでに20人ほどいることに驚いた。

受付担当の社員の人たちは携帯電話で連絡をとり、
お客様や道路の状況書き起こしていた。
ひどく殺伐とした雰囲気だった。

11日に遠方に行ったトラックは渋滞にはまって
朝になっても帰ってこれず、
事業所に帰ってこれた人も電車がストップしているため帰れずにいた。
帰れなかった人は会社で雑魚寝したようだ。
だから人が多かったのだ。

仕事への影響というと
連絡がついたお客様には通常通り、
連絡がつかない方や
当然それどころじゃないお客様も多かったので、
それについては連絡つき次第やるということだった。

引越しの繁忙期ということと、
この時期でないと動けないというお客様が多いことから、
元々は3月末まで夜中まで仕事が入っていた。
後々のため少しでも(仕事を)さばいた方がいいから
ガソリンが続く限りやろうという判断だった。

自分の中では
「え、本当にやるの…電気や水だって通ってないし、正気じゃないが…やるしかないのかな」
という曖昧な肯定だった。

当然周りには「こんな中やるなんて狂ってる。それどころじゃないだろ」と言った者もいた。

ただ、ここの社長さんがすごいのは昼には自家発電機を稼働させ、
電話をかけまくっていたところだ。

一度家へと帰り、カセットコンロで炊いたご飯をお握りにしてもう一度向かった。

普段なら高速を使うところだが、
通れなかったので下道を使った。

6号線はとにかく混んでいた。
ひたちなかなど北方面に向かう道は橋が欠損しているため、
ラジオを聞きながら使える橋を探して向かったそうだ。

僕らは南のつくば方面に向かう道を。
あまりに進まないため、山の方の抜け道を使った。
普段1時間ほどで着く道を3時間ほどかけていった。
確か、大角豆(ささげ)というつくば市内の交差点だったが、
停電の影響で信号は点灯しておらず大混乱だった。
普段から交通量の多い大きな国道が交わる交差点だからだ。
警察や警備の人がいたわけではなかったが、
じんわりと流れが押し出されていっていた。

13日からいわきナンバーが目立つようになったと思う。
ガソリン渋滞も多くなってきた。
やっているスーパーやコンビニもほとんどなかった。
運送業の方は多くがコンビニや外食で済ませることが多かったので困っていた。
それでも皆々の家にあったおやつや、
僕の家ではカセットコンロで炊いたおにぎりを6個持っていたことから、
渋滞の道中で分け合って過ごした。
あの時ばかりは職員も優しかった。
しばらく停電だったため、マンションの運搬は本当にハードだった。

冷蔵庫を10階からおろし、新居の8階まで上げる時もあった。
12日の午前中くらいからメールが届きだした。

ただ、すぐに携帯の充電がなくなって丸1日電話を不通にしてしまったが
運送業のドライバーは大抵、車にシガーソケットにつける充電器を持っていたので、
これには助けられた。
電気屋が再開して最初に買ったのはこの充電器だった。

13日の夕方にようやく父と連絡がついた。
林野庁の現場職員のため職員の安否、地区の安全、山崩れなど見回りに追われていたようだった。
また、幸いにして自分たちは大丈夫だったが、
食料が手に入らないという方もいて、
当時唯一使っていたSNSはmixiだけで、見てみると入手に困っていた方も少なくなかった。
都内や西日本にいる友達から食料送ろうかというメールもきていた。


14日 放射能のことを心配するメールが各所から届き始めた。

16日 昔の名残の派遣バイトのメールで、
「ガソリンがないため、出社できずにいる方が多く、
生産が間に合わないから出社でいきる方はご協力ください」との連絡が入っていた。

この日初めて家の中で寝た。

事業所にあるトラックの何台かは
ガソリンも底を尽き始めていたので、
その後3日間は営業所近くのガソリンスタンドに
夜中から交代で並んでいたようだった。
通る道通る道、数百m~数kmの渋滞が茨城でも見られた。

母は不眠不休で仕事をしていた父のことが心配だったので、
どこかのタイミングでガソリンを入れて、
父の単身赴任先である福島県白河市に行こうとヤキモキしていた。
今思えば運送業というガソリン食う仕事をしていて
本当に良かったのだろうかと思う。

引き続き食料はどこで買えるか分からなかったので
20日あたりまではおにぎりと飲み物は携帯していた。

16日だったか電気が復旧してTVがついた時に初めて、
東北の惨状を目の当たりにした。
ラジオでは県内のニュースが多かったから
「こんなことがことが…」と絶句した。

11日夜くらいから
大嶋啓介さん、中村文昭さん、てんつくマンさんのメルマガで
講演が中止などのメールが入るようになり、

13日くらいには東北支援をするという内容のものに変化していった。
動きが早かったことを覚えている。
僕も早いうちに行けるようにと寝袋や防寒着を集めて
ガソリンを食わないよう自転車で行こうとしたものだった。
ただ、僕のような素人ボランティアが行けるのか
という悩みはありつつ、(迷惑論もあったため)
ネットなどで情報収集を始めるのだった。
乗り合わせか何かで東北に行けないかということと、
物資を送っている団体探しが主だった。
東京のいくつかの団体や、ピースボートが見つかった。
ただ、東京まで行くのには迷いがあった、

そんな中18日、茨城NPOセンター・コモンズのホームページを見つけた。
コモンズは茨城県内の中間支援組織ということで、
県内外のNPOともつながりがあった。

そこに北茨城市やいわき市から要請があり、
15日には支援に向けて動きだしていたようだ。

また、そこにシャプラニールの方々が合流して、
いわきへと向かうのが18,19日の動きだったようだ。
3月終わりまでの間に3回ほど物資を北茨城、いわきに持って行ったそうだ。

話は戻り、運送業の仕事は普段の5割ほどのまま細々と続いた。
15日の昼、お客様連絡をかけまくっていた運送業の事業所の中で

1人の中堅社員がちょっとみんな集まれといった。
何かあったようだったー。

「よく聞いてくれ、東海村原発で働く俺の知り合いから連絡があった。
作業員が持っている感知器が鳴りやまないんだ。これは福島のものか、
東海村のものかは分からないが放射能の影響がある。
可能な者は南へ逃げろ。千葉の松戸の営業所で受け入れてもらえるようにするから。
逃げられない者は家を隙間を目張りするなりしろ。
落ち着いて家族に連絡したり、それぞれ考えるんだ。」

仕事は即刻中止され、
配送に出ていた職員は事業所へと戻された。
その日から松戸の事業所へと何人かの職員が移った。

さすがに色々な人にメールで状況を伝えた。
僕は何人か連絡をとった。

「なんだい、家が壊れて商売ができなくなったと思ったら、
今度はそれか、これじゃあどおしようもないぜ。」

なんて気落ちした知り合いもいた。

とりあえず家に帰り、
話をして待機することになった。

父親ともまだ合流できていないのも頭にあった。
夕方からは都内の友人や、
震災以前から反原発に声をあげていた友人から
すぐに離れろというメールが来た。

判断することができないまま、
たしか「今はまだ動けないんだ」と伝えた。
もうしばらくできることをやろうということに落ち着く。

翌日16日は当然仕事はなかったので
水戸の市民会館にあった災害対策本部へ向かった。
水戸駅周辺は湖の埋め立て地、川沿いということもあり、
地盤が弱いことからデコボコだった。
市民会館もまたしかり、三角コーンにロープが張られていたり

建物内には全国から届いた食料などがストックされていた。

なぜここへ来たかといえば
ラジオで大洗も大きな被害が出ていることを知ったからだ。
ただ、作業に入る人は大洗在住の方しか募集してなかった。
家から15kmほどだったので自転車で行こうと考えた。
それにあたっては水戸の災害対策本部に
行って情報を集めたいと思った。

放射線物質の飛散が気にならなくはなかったが、
当時はマスクとシャカシャカ素材の服を着て、
ある程度の防護をしたように思えたからだ。

その日は大洗には行けなかったが、
水戸の下市の年配の方の住む家の片付けに入らせてもらった。
自分の家も瓦が落ちポッカリ穴が空いていたが、
周りで始まったブルーシートによる補修を見て、
これから先は業者の方々は忙しいだろうと思った。
隣のアパートでその前日から補修作業が始まっていたので、
この人達に頼もうと決めていた。

業者の方もガソリンがないため、
下手にあちこち移動するより隣で
やった方がいいだろうというところで、
なんとか補修していただけることになった。

「もう3ケ月は休みなしになりそうで、まだ申し込みがあるんだわ」と言っていた。

17日大洗の災害対策本部に電話してみるとやはり、
付近の住人しかボランティア募集していなかったが、
「明日は行く」と決めて準備をした。

14日に近くのセイブが品を限定した状態で
野外で青空市場をしていた。

この情報は隣のおばちゃんが教えてくれた。
長蛇の列だったがなんとか買えた。
その日は丸八青果という野菜の豊富なスーパーにも行った。

自転車で走り回って見つけてきたのだ。
天井が落ち、崩れかけているところもあったが、
農家から持ち込みの青果屋さんだったので、
野菜は沢山あった。
レジが動かないので、メモでスタートしていた
時々余震が起こって崩れるんじゃないかとひやひやしたが
野菜をいくつか購入し、
賞味期限の長い食料ということで
乾燥ワカメや切り干し大根を沢山買った。
サラダにしたり、酢の物にしたりと重宝したものだった。

重宝したといえば風呂の水をトイレのタンクに入れられたのは良かった。
節水型のトイレだったのが助かった。

水戸周辺は20日頃には食料事情が回復したようだった。

それ以降は
修理費や今後どうなるか分からないな募金したいなということから
少しでも安く多く食べようと業務スーパーを利用した。
物資収集の際もここを利用した。

18日15kmの道のりを40分ほどかけて自転車で大洗に向かった。
マスクなどはつけていて。息苦しかった。
(3月末まで自転車で行動した)

海岸から200mくらいのところだったか、
津波の影響で町全体に砂が入り込んでいた。
最前列、2列目あたりの家々には津波が来た形跡があり、車も流されていたようだった。

町役場のテントを2つ立てたところがボランティアセンターだった。
役場の一階にも津波が来たらしく、
いつも賑やかな市場やアウトレットは商売できるような状態ではなかった。

まだ、ライフラインが通ってなく、
作業は自衛隊と一緒に水の配給、配送を行った。
帰宅してから玄関の前で
着ていた服は捨てたように記憶している。

19日 津波により泥を一階床にかぶった家の掃除
この日、5時間ほど並んでガソリンを満タンにした母が、
食料を持って父の単身赴任先である福島県白河へ。
当時は時間限定で営業する店が多かったので
買い物する時間には店がやっていなかったようだ。

20日 干物屋の片付け。干物を作るための
網や機械や、ケース、缶が潮水被って全部ダメになっていた。
家財を出し、床を片付けた。泥だらけということもあり、
商売道具が使えなくなり商売するのを諦めていたが
ボランティアが入り、整頓されたことで少し気が楽になったようだった。
この日初めてゆっくりとお風呂に入った。
16歳と80歳の人が救出されたというNEWSには
「もう見つからずにいた人も、そろそろ亡くなっているだろう」
と思っていただけに奇跡だなと感じた。

21日 仕事で訪れたひたちなか市は水戸の隣でありながら
断水が続いていた。
店を再開したはま寿司にて昼食
電気不足とネタ不足で、品を限定して
スーパーのようにパックに入れたもので再開していた。

22日 仕事もなかったので前から募金しようと思っていた
赤十字、赤い羽根、てんつくマンの口座に入金。
多賀城市の避難所で子どもたちが一生懸命手伝いを
しているNEWSに感動した。
同時にアレルギーがある子の食品が心配だと言っていたのも気になった。

23日 コモンズ事務所に支援金としてお金を届けに行った。
震災当初は事務所の本棚からは本や書類が飛び出し、
1番忙しい時期に仕事にならなかったという話を聞いた。
書類などは戻されていたが、忙しそうな印象を受けた。

「時間あったら手伝いに来て」ということと

集めている物資リストをメモしたので、
これらを集めてまた届けようと思った。

24日 ガソリンが10分の並びで入るようになる
コモンズに届けるために物資を集め、
バックパックや段ボールに積み込み届けた。

石巻かどこかの青果店が採算度返し価格で
商売を始めたというNEWSがあった。

27日 仲違いをしていた恩師の大貫さんに会う。
彼は水戸芸術館発足時の劇団の作家さんだ。
色々人生相談や、音楽、アート、芝居など
面白いことを教えてもらっていた。
今回安否確認しているうちにまた、会えるようになった。
結局は仲違いも小さいことだったなと仲直りすることができた

25日 なくしていた携帯をK'sの携帯ショップで
震災被害割引で購入。

18時からライトハウスにて復興支援LIVEがあり、
地元のミュージシャンが歌った。
東北では沢山の方々亡くなり、
友人の結婚式が中止になって悲しい思いもしたが、
もうはしゃいでも良い頃だと1人のミュージシャンが言ってた
事前に買っていた木村充揮(憂歌団)の
水戸の90eastのLIVEは中止になっていた。
それでもLIVEの余韻でそこへも行きたくなり向かった。
BARとしても使える場所だったので、
そこでは何人かが、飲んでいた。
お酒をストックする棚から
瓶が落ちないように紐で抑えられていたのが印象的だった。
同場所でNHKに出ている木村さんと近藤房之助との共演の
「見上げてごらん夜の星よ」をみな感慨深く聴き入っていた。

4月になってコモンズと運送業の繰り返しだった。
日払いだったので、もらった半分は募金していた。

1日 コモンズ事務所にて物資仕分け作業。
3日 災害支援経験もあるトチギVネットの方々を講師に足湯講習会をした。
  その日はなにかの拍子に夜中家で号泣した。
  疲れや精神的なところが出たのだろう。

6日 避難所支援をどうやって始めるか確かめるため
コモンズスタッフでいわき勿来、四倉を視察した。
放射能も気になったので、マスクをしていたが、
外して歩いている人もポツポツといるのには意外な感じがした。
意外な感じがしたといえば、6号線沿いにある
ダイソーが普通に営業していたことだ。
ガソリンスタンドはまだ、緊急車両しか入れられないようだった。
いわきサンマリーナの港がひしゃげていたことと、
四倉のコメリが津波によって
貫かれていたことが驚きだった。

避難所になっていた四倉高校にも行った。
ちょうど近くの温泉にマイクロバスで温泉へと
向かった後だったためは人はそれほどいなかった。

四倉の支所で話を聞いてきた後、
近くのLAWSONで買い物をした。
食料自体も充実しだしていたようで、
買ってもなんら問題ないとのことから、
アイスかなにかを買った。

8日 コモンズ事務所にて
明日出発する勿来にボランティアバスを出す説明を受けた。
宮城県6強

9日 勿来にいくために北茨城市も通過した。
(北茨城インターで降りた)
北茨城の港を見た古い家はきしみ
船が乗りあがっていた。
その後なこそ地区災害ボランティアセンターへと向かった。
コモンズのもとに20人ほど集まった。
なこそボラセンのスタッフの方が一生懸命だったのと、
その中でも笑いや精一杯の見送りなどがあり、一度でファンになった。
その後1ヶ月の間に8度ほど参加させていただいた。
菅野さんや、ももたろうさん、井上さん、高宮さん、高野さん、石井さん、
佐久間さん、小谷さんが印象的だったことと、
山口県から派遣されていた大野さんのホスピタリティ高い対応が本当に素晴らしかった。
(特に「ここの床下の具合ならば心配しなくていいから大丈夫だよ。」と寄り添いながら伝えていた)

11日 夕方から強い余震が続く

12日 仕事中、茨城県潮来にて震度5弱
液状化がひどい地域で電柱があっちこっちの方向に立っていた。
耐震強度が保障されているマークのあるそのアパートも
液状化でヒビなどが多く見られた。

14日 cafe dinner roomにランチ(水戸にある同級生の店)
16日勿来畳はがし
17日福祉会館で生井さんと待ち合わせして勿来

19・20日コモンズで会議
21日 勿来周辺の公民館や南の森スポーツパークで
できることはないこという調査に行く

22日 小名浜CoCo壱番屋でやっていた
「ボランティアの方は無料カレー」を食べる。
いわき市の社協の方や派遣されていた他県の職員と会った。
その後、がんばっぺいわきネットワーク代表蛭田江里子氏に会う。
(3月末にコモンズ事務局長の横田が紹介され知り合った)

小名浜市場から15号線を北上、平のデニーズで会食。
社協にて強口さんと会って今後の活動について
パルシステム茨城が行う炊き出しに合流(御厩小)

23日 90east うさぎファクトリー のLive
24日 勿来VC
25日 石塚観光で宮城へのボランティアバスがあることを知る
   CANTYでランチ
  (恩師の母親のやっている店。恩師と食べた)

29日 御厩小にて足湯
       現在いわき仮設住宅の連絡員をやっている
  久之浜北町の方と出会う。
  火災と津波にあって全壊していたこととアパートが決まらないことで相当ストレスを感じていた
 (この方とは11月に中央台仮設で再会)

【5月】

2日 フィジーにいる妹にカード・手紙
5日 いわき社協ボランティアセンターで夏井川サイクリング公園の作業
婦人会から豚汁の炊き出しをご馳走になる 
小原君NHK水戸放送局に取材
6日 内原ジャスコの買い物客の浮かれ様に置いてきぼりになった。
7日 自宅の補修とペンキ塗り
8日 生井さんと勿来 お昼に演奏家によるチェロの演奏
9日 自宅のトタンを張り替える
10日 コモンズ足湯の準備。
11日 御厩小 内郷コミュニティセンター足湯と物資提供
14日 勿来カトリック幼稚園、
   南の森スポーツパークでげじげじ人形劇
15日勿来VC
16日夜ボランティア
21日 平工業高校に足湯と物資提供 (沖・会沢・綿引・遠藤・小原)
寝泊りをしながら運営をしていた東京のNPO響きのnetの加藤さんに初めて会う
民間アパートへの引越が始まり忙しそうだった
(津波被害の大きかった薄磯・豊間の方々の多くいた高校に設けられていた避難所)

22日 絆japanの呼びかけにより南相馬市萱浜海岸で消防団と遺体捜索
      (大甕セブンあたりがゲートがあった)

23日 コモンズのいわき駐在で働かないかと言われる
28日 コモンズ総会
体調を崩した妹はフィジーより8月までの予定を切り上げ帰宅
29日 いわき社協ボラセンにて作業(田嶋先生、青柳さん)
      勿来ボラセンスタッフのいるMOMOCAFEで コーヒーを飲む。

【6月】
1日 ザ・ピープル吉田恵美子さんに会う
いわきの地域性や地域ごとの団体などを聞く。
当時いわき市北部に気を配っていた鷺さんとMT 久ノ浜のことを初めて聞く
若いチームが頑張っていることと
近くの料理屋さんが震災後、料理でお手伝いができなかったこと
後悔してボリュームたっぷりの弁当をボランティアの方にふるまっていると聞いた。

4日 小名浜ボラセンにてニーズ調査(コモンズボラバス)
5日 小名浜から久ノ浜末続までガイガーカウンターを持って視察
8日 がんばっぺいわきネットワークのカウンセリングワークショップ参加
9日 新潟で仮設住宅対応された方を招いていわき市社協にて勉強会
10日小名浜ボラセンの折戸側溝
11日小名浜ボラセン運営支援始まる

立ち上げメンバーも仕事再開や
GW後のボランティア増加により運営が大変になっていた。

(7月2日事務所開設まで車中泊や色んなところにお世話になる)

夜からよつくら道の駅でキャンドルナイト
末永さん、宮本さん、白岩さん、ちかさんとマンママリイ

12日 久ノ浜諏訪神社へ初訪問
         地域のボランティアセンターの役割を果たしていた
        そこの中心にいた高木さんは僕よりひとつ下だという。
        こんな若い方が頑張っているのかとビックリした。
        いわき自立生活センターに避難者も含めたサポートができるようにと
        新事業所の構想などを聞きに行く。

16日MOMOCAFEとチャドメラにてイベント
26日 MUSUBU復興イベント くるり
      喜納昌吉LIVE(小名浜一中)

【7月】
引き続き小名浜ボラセンで
受け入れ・資材搬入・ニーズ調査・聞き取り

4日ボラセン終息に向けてお疲れ様会発足
11日鷺さん
7日12:00 水戸
 19:00 いわき

9日いわき合同葬儀
10日UDOK.映画祭
12日ソーシャルビジネス
14日いわきSONIC「10年後の空」村重さんのドキュメンタリー
17日なこそ復興ライブ 古謝美佐子
20日ROADプロジェクト会議 仙台
23日中央台
24日中央台にて映画祭
25・26日小名浜VC引越
27日除染MT
28日コミュなるにて加藤さん
いわき自立生活センター
31日久ノ浜

【8月】
1日小名浜VCの今後のためのMT
7日いわき踊り小名浜大会(リスポ)
8日 いわき市七夕祭り
     ToneのLIVE、江里子さんにiPad届ける  
     いわき市の有名な音楽家、村重さんに着いていき  
    music&hair es に行く。
    内装と店員さんの人柄が素敵だったので、
    いわき市に居た頃はほぼここで髪を切ってもらうようになる。
9日 つくばに物資配送
11日 light up nipponの花火大会が小名浜で行われる
12日 浪江町の広報誌「なみえのこころ通信」インタビュー
     北茨城市に避難した横山さん家族をインタビュー
Jヴィレッジに行く
19日 小名浜イベント 震度5弱 津波警報
21日 小名浜ボラセンにていわきNPOセンターやシャプラニールと民間アパート向け配布会
25日 平工業高校にいた方より新しい住居の内郷雇用促進住宅で
どこに地域の人がいるのか、顔を見ても会話できない状況から
自治会を目指してみようという動きが始まる。
中央台仮設でも始まっていた自治会の呼びかけの情報を僕の方でも集めた。
自治会立ち上げの準備ミーティング

27日 久之浜奉天祭花火大会

【9月】
中央台にある交流スペースの
パオ広場のスタッフのお手伝いを始める。
昼間は近隣のいわき市、広野町、楢葉町の仮設の方とも話したり、
夕方遊んでいた子どもたちから「おかまの兄ちゃん」と呼ばれることに。

3日 いわき事務所「コミュなる」でコモンズメンバーと交流会
5日 自立生活センターで食事介助のヘルパー業務(30日まで)
11日 チャンドメラでLIVE
19日 パオ広場オープニングイベント
  補助的にサロンのお手伝いに入る。
24日 平工業高校の避難所の同窓会
   (当日は送迎を担当。いわき市の地理感があったので個々に連絡を取りながら行った。
     ここで仲良くなった方を中心に訪問を始める)
27日 内郷MT(1000人の住宅で15人ほどの参加だった)
  自治会賛同アンケートを作ることになった。
  各階からまばらに参加者がいたので、参加者が手分けして、各部屋を回ることに。

9月後半に中央台で自治会立ち上げをバックアップしているという
話だけ知っていて、同じようなアプローチで動いていた
あしたげんきになあれの赤池さんと
仮設住宅の集会所の管理人などをしていた
当時広野みかんクラブの高梨さんに会う

【10月】
民間借り上げ住宅の訪問活動をスタート。
3月くらいまで借り上げ20世帯を頻度に応じて訪問
(訪問といいつつ食事や飲酒もあった)
活動を通して知り合ったNPO・教会・社協・保健士・民生委員・区長と
ゆるく相談しながらやることに。
市内にどれだけ支援団体がいるのか。
連携したいなと思って歩き周り始める



1日 いわき復興祭(21世紀の森公園)
2日 FKPのワークショップに参加
4日 ROAD松山さんいわき視察
5日 アクアマリンツアーの下見
9日 シャプラニールのサロンオープン
12日 ハイエース泥にはまるが知り合いができる
16日 久之浜でがんばっぺいわきネットワークが東急ホテルに方々をコーディネート
18日 内郷MT(半数以上が自治会立ち上げ賛同)
20日 水戸で村井雅清さん講演
21日 ミネルバにて即興芝居
23日 中央台芋煮会
27日 小名浜古湊地区にて物資提供のなかった方向けに物資配布
内郷MT(7割がた自治会のかたちがまとまる)
30日 ぼうけん映画祭
31日 パオ広場広報誌スタート 全戸へ配布

【11月】
9月以降も会津や郡山からいわき市に転居し
増加していた仮設住宅の状況を把握するため
市内仮設住宅の支援状況や体制を確認するため
二十数カ所あった市内の仮設や市町の出張所などを回りだす。


1日 明星大学ボランティアセンターにパオ広場で一緒にやらないかと
2日 店を再開した塩屋崎灯台下の観光物産
「山六観光」の鈴木社長にツアーで回ることを確認しに行く
3日 アクアマリンツアー(久之浜、薄磯、小名浜)
(ホープいばらき被災地スタディーツアー)
5日 中央台にて広野町ハイキング
6日 ぼうけん映画祭 第4仮設住宅
中央台カレー炊き出し
8日 内郷MT(役員顔見せ)
9日 ROAD情報交換会 in 岩手 松田屋
11日 ふくしま会議 in 福島大学
12日 ふくしま会議 in 福島高専
(福島県内の状況を幅広く知るきっかけになった)
13日 小名浜交流サロンがリスポにオープン
17日 つくばの学生がパオ広場に視察
19日 中央台 熊本ラーメン
21日 吉富さん講演、ワークショップ
23日 ホープいばらき活動報告会 in水戸
27日 内郷雇用促進住宅自治会立ち上げ芋煮会
(響きの森net、FKP、グローバルミッション、イスラム文化センター、秋田県横手市の方々)
30日 平本あきおさん講演
神戸の震災後、心理学やコーチングの幅広い経験の中で
震災後の人生やそれぞれの自分軸の話を聞く

【12月】
茨城県災害対策本部に派遣されていた
福島避難者支援課の方からの協力依頼もあり
茨城県内で当時3000人余りの方々に支援がされていないことを
踏まえ、支援体制をとっていくことになる

13日 つなプロ報告会 日本財団ビル
(現地の必要な動向を調査してつないでいくことをしていた方々)
18日 久之浜クリスマス会
小名浜ボラセン、MUSUBUクリスマス会
20日 仮設支援連絡会 日本財団ビル
24日 中央大復興市
(仮設住民や地元住民によるお祭り、富岡町から避難してお弁当屋さんとして
再開された観陽亭遠藤さんと会う)

27日 茨城県日立市の塙山交流センター(茨城県内への避難者への物資配布会打ち合わせ)
28日 茨城県つくば市市民活動センター(茨城県内への避難者への物資配布会打ち合わせ)

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