先生とお茶

 20年程前、田舎で起こった話である。当時私の母親は茶道教室に通っていた。教室と言ってもその頃住んでいた地域の運営するサークルのようなもので、先生も生徒も全員同じ地域の住民だった。そこに通う人達も、本格的に茶道を習うというよりはご近所同士でのおしゃべりが目的だったりするような、緩い雰囲気の教室だった。母親本人は茶道にそれほど興味があった訳ではなく、近所付き合いの延長で断りきれず始めたらしい。しかしやってみたらそれなりに面白かったらしく、楽しんで通っていたようだった。

 そんな母だが、ある時を境に教室を辞めてしまった。当時10歳くらいだった私が理由を聞いても「色々あってね」と濁されて教えてもらえなかった。後から聞いた話だが、そこの先生が月謝をピンハネして懐に入れていたらしく、それが判明した時点で教室自体が無くなってしまったのだった。

 それからしばらく経ったある日、突然見知らぬ女性が我が家を訪ねてきた。よく覚えていないが確か時間は夜の8時か9時ごろ、とにかく普段は誰も来ないような遅い時間だった。滅多に使わないティーカップで何だかアワアワしながら紅茶を入れている母親を不審に思い、「誰が来たの」と聞くと「お茶の先生」と返ってきた。「あんたは部屋に行ってなさい」と言われそのまま部屋に戻ったが、何とも言えない恐ろしさを感じて落ち着かなかった。

 そう長く居座ることもなく、先生は帰っていった。不安になった私は何の用だったのかとしつこく母に尋ねたものの、何も教えてはもらえなかった。母が紅茶を入れるために火にかけたヤカンの湯気が、なぜだか忘れられなくなった。

 それきり彼女が我が家を訪ねてくることはなかったが、私は何年経ってもその夜のことを忘れられず、高校生くらいになった頃にもう一度母に尋ねてみた。母は笑いながら「よくそんなことを覚えてるな」と言い、大体の事情を教えてくれた。

 ここまで来れば大体察しが付くとは思うが、先生が我が家を訪ねた理由は借金の依頼だった。しかし、母と彼女に教室以外での交流はほとんどなく、近所で偶然顔を合わせたら挨拶する程度の関係でしかなかった。ちっとも裕福ではない我が家がその程度の間柄の人にお金など貸せる訳もなく、当然断ったのだが、それでも「5千円でもいいんだけど……」と食い下がられた。それも断った。

 どうも先生は、茶道教室の生徒や、少しでも関わりのあった人の家を1件ずつ車で訪ね、借金の依頼をして回っていたらしかった。車には先生以外にも何か怖い人が乗っていて、そうやって近所中を巡る彼女を車の中で待っていたようだった。

 他にも、茶道教室の時はいつもいい着物を着ていたのにみんな売り払ったみたいだ、とか、彼女は結婚していたけれどいつのまにか離婚して旦那さんだけが残った、とか、近所の噂話で聞いたのであろう情報をいくつか教えられた。しかし彼女がその後どうなったのかは、近所中の誰も知らないようだった。(完)

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