優等生のマルタと落ちこぼれのマリア

 聖書に出てくるマルタとマリア(聖母でもマグダラでもない)の話、私は明らかにイエスの話をフンフン聞いてるサイドの人間なので、マルタ的な人に怒られっぱなしの人生なんですが、マルタ的な人は日々の生活の上で「正しい」のに、なんでイエスはマルタをたしなめてマリアを評価しているのかなとずっと思ってたんです。

 マリアはものすごく「怠け者」に思えるじゃないですか。

 でも、数ヶ月前に、本当にひどい臨床心理士に追い込まれてどうにもならなくなった時に気づいたんですよ。マリアってマルタみたいに手は動かしてないけど、気働きをものすごくしてたんだと思うんです。
 現在の社会生活においては気働きは評価されづらく、わかりやすい報酬を得ることはできません、けど、これをやる人間がいないとやっぱり世の中って回らないんです。
 私は自分の働きをお金に変えることが得意ではないんですけど、気働きは常にしているようなんです(もちろん失敗も多々ありますが)。マルタ的な人は気働きは案外とおざなりなんです、そこをきっとイエスは見てたと思うんです。手を動かして目に見えてわかりやすい働き者だけが評価されてるけど、気働きも重要なんだって評価してくれたんだと思うんです。本当にダメな臨床心理士ってわかりやすく見えるところは頑張るんだけど、全然心のケアができない人で、なぜか私がそちら側に一方的に回るという状況になっていて、あれ?なんで私が臨床心理士にマインドフルネスのやり方や心得を説いて(私はマインドフルになることはできる、けど、その臨床心理士はできない)、彼女の話を傾聴してるのかな?この人は私に傾聴させて報酬を得ているけど私は自分の時間も金も払ってくたびれてるってなんなのだろう?と虚しくなりました。でも、その関係性を変えられなかったんです。なので、もう限界でした。

 マルタ的な「正しくていい人」と接すると、とても苦しくなることがある。でも彼ら彼女らは正しさを押し付けていることに気づいてはいないのだ。風通しが悪いことにも気づいてはいないし、自分の了見が狭いことにも気づいていない。マルタになりたくてなれなかった落ちこぼれのマリアは鈍感になれないので、ああいうことになっているのです。あなたに怒られたり馬鹿にされたりしつつ、あなたの鈍感さをさりげなくフォローしていたりするのですよ。

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