絵をみること

 なんとなくそういうのっていいなーと思いながら、やっていなかったことのひとつ。「美術館で絵をみる」。でもとっかかりすらつかめないまま何年も過ぎていた。

 お金をはらえば美術館には入れるけど、知識がなさすぎて何をどこで見ればいいのか決められず、そもそもおしゃれっぽいからやってみたかっただけなのだ。それがいまは、ちょっとちがう。絵っておもしろいなーと思うようになった。それはどういうことなのか?についての考え。

 なんとなく今では、本を読んだり、音楽を聴いたりすることと同じだと思っている。でもひとつ、ぜんぜんちがうことがある。それは「実物がひとつしかない」ってこと。写真を見て、タイトルと描いた人を知っているのと、その絵をみたことがあるかどうかは、ぜんぜん違うことだ。

 わたしがすきなのは、横尾忠則さんの絵で、もしかしたら、他の人が描いた絵ではちがうかもしれない。以下はわたしが横尾さんの絵をみて感じたこと。

 絵は生きていて、色んなことに反応している。わたしがみていればわたしに。

 四角い部屋で絵をみていた。横尾さんの絵はとても大きい。大きい絵のほうがいい絵が多いかもしれない。ひとつの壁に1枚の絵。わたしはその部屋を出る前に、なんとなく部屋全体を見渡した。反対側の壁の前にはわたしに背中を向けて絵をじっとみている男の人がひとりだけいた。ほかの人はどんな風に絵をみるのか気になって観察した。すると、あれ?なんかへんだなと思った。

 その男の人がみている絵は、たしかにさっきわたしがみたもので、でもわたしのときとはちがう顔をしていて、今はあきらかに目の前にいるあの男の人に注目している。絵は今、あの男の人とやりとりをしている。あのふたりのあいだに何かが起きている。絵の横顔をみているわたし。

 わたしはとてもびっくりした。そしてほんのちょっと嫉妬みたいな気持ちが芽生えて(だってわたしもけっこうじっくりみていたのに、ほかのひとの前ではそんな顔もするのね)、ああ、だから絵って高いんだ、と思った。「生きているもの」と「お金」を交換するっていうのはとてもむずかしいことだ。

 もう1枚の絵の前ではわたしは気づかないうちに足をふんばっていて、なんだかちょっと近づくのはこわいような、でも横尾さんの公開制作を見たあとだったので、描いてるときの横尾さんの距離くらいでみてみたくなって、引っ張りこまれないようにゆっくり近づいた。

 絵はわたしの視界からかなりはみ出した。筆でキャンバスをさわっていると全体は見えないものなんだなーとか、ぼんやり考えごとをしていると窓の外から音がしたので目線をそっちに向けた。建物の前の道路をバイクが通り過ぎて行った。そのときのわたしは絵のかなり近くで耳を近づけて音を聴いているような姿勢(なにか聴こえるかな?)。それはそれでおもしろいような気もした。すると、さっきのこわいかんじがなくなっていることに気づいた。 

 わたしの目はもう絵を見てもいないのに、でもその存在感は感じていて、しかも不思議な心地よさがあった。絵が欲しいと思う人の気持ちがすこしわかった。わたしの身体は、この絵のそばにいることを気持ちのいいことだと判断した。離れてみているとこわいのに、近づいてみるとやさしい。横尾さんてきっとこんなひとだろうな、と思った。

 実際トークショウなどで話す横尾さんは、ものすごくおもしろい人で、関西系のひょうきんさ、気取らないかんじがとてもすてきです。Twitterの写真はこわそうなのに。あと、着てるものがかっこいい。黒Tにカーゴパンツとか、アロハシャツとか、似合うものをさらっと着ている。靴下がおしゃれ。

 絵をみることも美術鑑賞、みたいに堅苦しいことではなくて、遊びにいくくらいのいい加減な動機で行ってもすごいものはやっぱりすごいんだなー、と当たり前のことを思ったのでした。横尾さんの絵に関しては、とにかくたくさんあるのでこれからもたくさんみるだろうし、新作もとてもたのしみなのです。

 絵に関してはまだまだ不思議に感じることがいっぱいあるんだけど、その話はまたこんど。もうちょっとわかるようになるといいな。世界の名画とかもみてみたいしね。




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