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幸福について

明けましておめでとうございます。2021年になりました。

突然ですが、「幸福」ってなんだと思いますか。

質問しましたが、答え合わせはありません。これから、時間をかけて考えていきたいテーマです。

2020年が終わり思うことは、幸福な人生のために「使われるのではなく、使う人間になろう」ということです。

昨年は、「仕事」と「自分の人生」についてあれやこれやと考えた一年となりました。

今の会社に入社して3年。私の時間と労力、思考、人としての権利、全ては、周りの人間に支配され、吸い尽くされていたように感じます。そうさせていたのは自分です。会社や身の回りの環境のせいにして、自分の人生に対する責任を負わないようにしていました。

なんのために働くのか、どうして今の会社なのか、自分が一番大切にしたいものは何なのか。そういうものを、持っているつもりで、持っていなかったのです。他人の利益のために、使われる人間だったのです。

それでもいいと思ったこともありました。高い評価をうけ、大きな夢を叶えるよりも、私は、誰かに「ありがとう」と言われる方がよっぽど嬉しかったからです。自分が誰かの役に立っていると感じることは、とても気持ちがいいものです。

でもそれは、他人にとってはただの都合のいい人間でした。お礼を言ってもらえても、対等には扱われなかったのです。特に、私が女性だということも、影響していたのかもしれません。(個人的問題を、「女性」のせいにしたいだけかもしれませんが。)

自分に能力があれば、もっとお互いに信頼しあえる関係を築けるかもと思いましたが、何をやっても上手くいきませんでした。私の言葉は、認識するに値しない言葉だという扱いをうけることもたくさんありました。

気人がやりたくないような事務仕事や手のかかる仕事は全て私の担当になっており、疲れた顔で必死に仕事をこなしていると、「もっと楽しそうに仕事をしろ」と言われました。そして問題が起きると、責任は全て私に押し付けられました。

帰宅後も休みの日も、会社で精神をそぎ落とされた疲労感が残り、家事も思うようにこなせませんでした。そんな自分のことを、どんどん嫌いになって、生きていることに対する喜びを感じられない日々もありました。

そんな2020年を終え、2021年元旦の夜、布団の中で思ったことは、「人に使われて生きていたら、幸福にはなれない」ということです。

自分の時間は自分のもの。人として対等に扱われる権利も、自分のもの。美味しいものを食べたい、美しい大人になりたいと思う意思も私のもの。書くことで挑戦をしたいという道筋を描いたのは、私。

そして、私のことを止める権利は、誰も持っていないのです。誰の言うことも、聞く筋合いは全く無いのです。

我を通すことに抵抗があったけれど、それはきっと、我を通す=他人への気遣いや思いやりにかけるという勝手なイメージがあったからだと最近気が付きました。

自分のことは自分で決める。いいと思う自分の感覚を信じて、人も環境も、全てを使いこなして、自分の力で人生を切り開ける力をもちたいと思います。

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