眠りたい心

 眠りたい。何回この夜を繰り返せば眠れるのだろうか。
 眠りたいのはやまやまだ。けれど心は自分の体力を構うことなくはしゃぎ続ける子供みたいに動き続けることを止めない。
 悲しい、辛い、苦しい、悔しい。夜になるとそんな感情が際限なく溢れ出して、なんの解決にもならないのに言語化しようとする。
 そんなことをして救われるのは、自我を持てたことに悦んでいるそれら陰極な感情だけであって、心なぞ全く救われない。
 心は眠りたがっている。でも心はそういった感情から離れたくも、離れられない。感情は心を起点に息を吹いており、心が無くならない限り感情もまた無くならない。
 では心はいつ眠れるのだろうか。言語化され自我を持った感情が誰かの元に行き、抱き合い愛されて、ようやく心が安らぎ眠れるのだろう。子を持った親と同じように。
 とすれば、この心はなかなかに眠ることはないだろうと思う。心は感情を誰かの元に送り出したくないのだ。
 うちの感情は不出来だ。不恰好だ。こんなものをよそに出して仕舞えば、親の顔に泥を塗る。心の恥だ。育て方を間違えたことが露見してしまう。
 心そのものを否定されたくはないのだ。
 そんなちっぽけなプライドが心を孤独にして、眠れないまま、気絶して眠るまで心を起こしている。
 気絶でも良い。次にもし眠れたとき、もう2度と目を覚まさないで欲しい。
 もし目を覚ますなら、せめて出来が良く恰好の良い感情だけを芽吹かせる感性であってくれ。
 そうしたら今度は、心は心置きなく眠ることができる。

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