オトナの学校
《小説》
ハキは言った。
「今まで言われた中で、一番グッと来た口説き文句ってどんなの?」
僕は2秒ほど考えた。
「ある日、東銀座で打ち合わせがあって、終わったら午後4時くらいだったんだ。少し早いので、近所に住んでる女友達に連絡を取って夕方から2人でお寿司を食べに行ったんだよ。」
「随分と早いわね。」
「うん。思い立って連絡したら、彼女もたまたまスケジュールが空いていたということでラッキーだったと思う。そして2人で夕方から軽くお酒も飲んでほろ酔いの体で、行きつけのバーに行ったんだよ。」
「前に言っていた、地下にあるバーね。春画の飾ってある。」
「そう。銅板を張ったカウンターバーで少し緑青が出ていて、腕は確かだけどとても軽妙でちょっとHなバーテンダーがいるいいバーだったんだ。」
「腕がいいってのはわかるけど、『軽妙でH』が良いっていうのがアナタ向きね。」
そう言うとハキはコロコロと喉を鳴らすように笑った。とてもチャーミングだ。
「でもそこは夜の7時オープンだったんだけど、その時はまだ6時20分くらいでさ。『まだやってないよねぇ』と言いつつも、酔っていた勢いもあって、とりあえず行くだけ行ってみたんだ。彼女も僕も別々にその店の常連で、ある時カウンターで出会ったんだよ。」
「ふーん。それで?」
「行ってみると、ドアには鍵がかかっていなくて、すぅっと開けると、既にバーカウンターには1人の男性客の姿があったんだよ。既に何かお酒も飲んでいた。
軽く黙礼して、ひとつスツールをあけて手前側に座ったんだよ。
その日が水彩画だったとして題名をつけるなら「初夏のはじまり」みたいな1日だったんで、僕はコロナビールを、女友達はベルギーの白いビールを頼んだんだ。」
「うん。」
「バーテンダーと前回訪問してから(と言ってもほんの3−4日しか空いてなかったんだけど)の出来事を軽く話したり、今日は2人でまだこんな時間なのに既にお寿司を食べて来たんだよ、なんて他愛もない話をしていたんだ。まぁ、よくある感じだよ。」
「わかるわ。」
「しばらくして今度は隣の紳士とバーテンダーが何かを話していたんだよ。さりげない普通の会話。」
「いまどき紳士って言う?(笑)」
「まぁまぁ。そしたら突然隣のその男性が身体を90度左に回転させて『君がJかぁ!?』って言ったんだよ。」
「うん(笑)」
「その途端、バーテンダーが、『こちらが、前にお話したA編集長です。』ってその男性を差して紹介してくれたんだよ。後でわかったんだけど、僕よりは大体20歳くらい年長の方だったのね。」
「うん。」
「そしたら、ジィーっと僕の目を見て『君の人生の1時間を、今から僕にくれませんか?』って言ったんだ。」
「え〜っ!」
「『音楽の良さを解ってくれそうな方には、伝えておかなければならない場所があるんです。』って続けたんだ。
僕はもうすっかり嬉しくなってしまって、『はい、喜んで。』って答えたんだ。」
「わかるわ。」
「僕がそう言い終わらないうちに、Aさんはもうその場でお勘定を済ませて、ほとんど僕の手を引かんばかりの勢いで地上に出て、タクシーを拾って僕らはその後一直線に九段南に向かったんだ。」
「「えーすごい勢い。でも、私もいきなり素敵な人にそう言われたら同性でもグッと来ちゃうなぁ。で、どこに連れて行ってくれたの?」
「それはね、概念的な話しになるんだけど、『オトナの学校』の入学式へ連れて行ってくれたんだ。」
「なぁ〜にぃ?その学校って?もう卒業したの?」
「いや、実はまだ卒業してないんだよ。今、何年生だったかなぁ?」
そういって、指を屈して数えたら、7年生の新学期だった。これは留年なのか、進級なのか、夜空を見上げて考えたら、星がキラリと光った。
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