スワヒリ語と川柳
川合大祐さんの川柳の句集「スローリバー」(葉ね文庫で購入した)を括っていたら、こんな一句があった。
スワヒリ語未来時制で花落ちる
スワヒリ語で未来時制はtaで表す。
例えば、「私はあなたを愛しています」はNinakupenda(ニナクペンダ)という。
これをむりやり「私はあなたを愛すだろう」という未来時制にするとNitakupenda(ニタクペンダ)となるわけだ。
Ninakupenda(愛しています:現在)
Nitakupenda(愛すだろう:未来)
見比べてみるとわかるように、上の現在時制でnaとなっている部分が、下の未来時制ではtaに変わっている。
字面だけ見れば変化した箇所は3文字目のnがtになった箇所なのだが、文法的にはnaでありtaがそれぞれの切れ目なのだ。
ついでに言うと、Ni(私は)na((現在ということを表す))ku(あなたを)penda(愛する)ということになっている。
で、[スワヒリ語未来時制で花落ちる]である。
スワヒリ語の未来時制がtaというのは、「〜た」で過去時制を表す日本語を知っている我々としてはちょっと面白い発想なわけだ。
最初にこの句を読んだ時はつまりそういうことを言ってるのかなと思ったが、どうも「未来時制で花落ちる」というのがしっくり来なかったのでもう少しスワヒリ語のことを思い出してみた。
もう一歩踏み込んでスワヒリ語の世界に入ってみると、実はスワヒリ語を話す人の中には「スワヒリ語には未来時制なんて存在しない」という人もいるらしい。
じゃあさっきのtaはなんだったんだ、という話になるが、もちろん未来時制などないと言う人々もちゃんと未来時制を使って会話はできるだろう。(でなければ日常生活が不便である)
例えば「またね」という別れの挨拶はTutaonana(トゥタオナーナ)という。
察しのいい方はピンと来ると思うが、Tuの後のtaが未来時制であり、Tutaonanaを直訳すれば「私たちは互いに会うだろう」という未来の意味になる。
で、「未来時制はない!」と言い張る人に対して「Tutaonanaって挨拶でいつも未来のこと言うてるやん」て言うと、そういう人は、違う、それは"Tutaonana kama Mungu akijaaliwa."のことだと言う。長い。
つまり「kama Mungu akijaaliwa(神様の思し召しがあれば)Tutaonana(私たちはまた会うだろう)」と言いたいわけである。
未来のことは神様にしかわからないこと、私たち人間では及ばないこと、という考えで生きている信心深い人々がスワヒリ語圏には存在するのだ。
(※以上全てスワヒリ語恩師からの受け売り)
というのを頭に入れてから[スワヒリ語未来時制に花落ちる]だと、結局花は落ちるのか?花落ちる、とはなんだろう。花が落ちるかどうかに限らず、未来のことがわかるのは神だけじゃなかろうか。。
私自身は短歌を始めて2年目になるが、たぶん短歌、俳句、川柳など七五調の世界を見渡してもたぶんスワヒリ語のわかる人間はそうそういないだろう。。。ということで蘊蓄をたれてみた。(学生短歌会で言えば、大阪大学にスワヒリ語の専攻課程があるのでひょっとすると阪大短歌会あたりにいるかもしれない。他にも何かの縁でスワヒリ語をやっている人もいるかもしれないけれど)
そして何より、スワヒリ語というワードを句集に見つけたことが嬉しかった。
▲家にあるスワヒリ語版「シンデレラ」
なおこの句集は「島耕作」「ゴレンジャー」「モリアーティー」など私の心を滅茶苦茶くすぐってくる言葉が散りばめられていてとても心地よい。(モリアーティーはシャーロック・ホームズの宿敵)
なおスワヒリ語のほか私のお気に入りはこちら。
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