吉報
先日、私の携帯電話が珍しく鳴った。それは思いもかけない良い知らせだった。鈍臭さと神経質のために気の沈みがちな私の日常に、その吉報は一服の清涼剤となった。ところがそのとき私の胸に去来したのは、嬉しさが二割、不安が八割であった。
「自慢しても良いですよ」
先方の物慣れた担当者は落ち着き払って言った。私はしどろもどろに何か喋ったが、支離滅裂で自分でも何を言っているのか分からなかった。普段はひとり頭の中で偉がったり高尚ぶったりしていても、目の前に現実のニンゲンが突然現れると、声は裏返り言葉も出ないのであった。私はごく簡単な説明を、的外れな言葉をつないでくどくど話しながら、自己嫌悪に陥った。
私は、吉報のもたらしたものが、喜びでも希望でもなく、不安や自己嫌悪であるという自身の倒錯した反応が面白いと思った。不思議ではあったが、少し考えると、すぐに理由は判明した。そうして、その理屈を支える、私の性質というものに思い至った。
“弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。” -『人間失格』太宰治
要するに私は弱いのだ。私は幸からも不幸からも逃げて深海に沈潜しているひとつの貝である。そこには光はないが自由がある。必要なのは水圧に耐える殻の硬さだけだ。そうして固く閉ざした殻のなかで一粒の自尊心の真珠を磨きながら、貧富も勝敗も貴賤もない世界で無敵に暮らしている。
弱いことは悪いことではない。弱さをつくろうところに諸悪の根源がある。私は弱いが、弱いくせに強がっているやつよりは、いくぶんか強いだろう。そんな負け惜しみのあぶくが、ふらりふらりと浮き上がり、海面へ顔を出すと音もなく弾けて消えた。
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