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使えるなら使っていた


 日本でも原子爆弾に関する研究は、戦前にも戦中にも立ちあがっている。
 しかし核分裂を兵器に仕立てるというのは、当時としては途方もない話だった。実現するとしても何十年先になる。その間、成功するかどうかもわからない研究に多額の資金を投じることになる。
 意欲のある研究者はいたが、研究費を差配するのは役人である。役人が数十年先のあいまいな目標のために腰を上げることはなかった。名乗りを上げた研究者も、目先の実用的な仕事へまわされた。

 一方、米国ではその二三十年前から原子物理学の研究がはじまっていた。太平洋戦争が勃発する一年ほど前にはウラニウムの核分裂に関する論文が発表された。それは日本にも届いた。
 ただしこの発見から原子爆弾が実現するまでには遠い道のりがあった。日本の科学者は三十年かかると見た。
 ところがそれは四年で達成され、日本に投下された。

 日本が高を括っているとき、米国ではルーズベルト大統領が音頭をとって莫大な資金と研究者を湯水のごとく投入し、せっせと原子爆弾を開発した。米英は協定を結び、多数の英国の研究者が米国へ渡って貢献した。またヒトラーに追放された優秀なユダヤ人科学者たちもこれに囲われて大きな役割を果たした。
 研究はたちまち製造段階へ移り、大工場が建ち、六万五千人余の作業員が原子爆弾の製造に関わった。

 例え日本で原子爆弾の研究がはじまったとしても、当時の国力では実現することは不可能だった。それ以前に、科学の話を理解できる役人がいなかった。戦争は、はじまる前から負けていた。
 しかし原子爆弾をつくろうという考えはあったし、作ることができるならば、間違いなく作っていた。作れなかったから作らなかっただけである。

 私たちは、毎年この時期になると、原爆の悲劇を「忘れません」と言う。しかしもう一つ忘れてはならないのは、日本も使えるなら使っていたかもしれないという立場に立っていた事実である。
 もしも日本が原子爆弾を手にしていたら、あの追い詰められた状況で、それを使わない手があっただろうか。その問いを、忘れてはならないと思う。未来を担う自国の優秀な青年たちをすら人間爆弾として使った国が、である。


 参考:中谷宇吉郎「原子爆弾雑話」(中谷宇吉郎随筆集,岩波文庫)

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