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ボルツマン脳:10^10^50年に一度の必然


(1)空想

 私たちが見ている世界は、もしかしたら脳のなかだけに生
じた仮想現実なのかもしれない。人類の意識は誰かの操作す
る電気信号か、水槽のなかに浮かんだ脳がみる夢に過ぎない
のかもしれない……。

 だれもが一度はそんな空想にとらわれたことがあるのでは
ないでしょうか。この考えを科学の視点から真面目に唱えた
学者がいました。物理学者のルートヴィッヒ・ボルツマン(
1844年-1906年)です。


(2)奇跡

 真空中に散在する原子があるとき何かのきっかけで偶然に
組み合わさって宇宙というものが出現し、その空間へ星々が
生まれ、とある惑星の上に生物が進化した結果、今ここに人
類が文明を建設している。今のところそれが私たちの存在の
根拠になっています。その悠久の過程においては無数の偶然
が繰り返されてきました。高度な文明が営まれている地球は、
奇跡の星です。

 しかしそんな途方もない奇跡の起こる確率よりも、真空中
の原子が何かのきっかけでポンと脳を生むほうが、はるかに
簡単ではないか。ボルツマンはそのように提唱しました。宇
宙より、脳のほうが、よっぽど単純な物質だからです。この
ポンと生まれる脳を、ボルツマン脳といいます。


(3)記憶

 ボルツマン脳はその中の記憶も含めて誕生します。工場で
PCが生産されるときにすでにそのなかへデータが組み込ま
れているのと同じことです。私たちの意識は、このボルツマ
ン脳が生む錯覚かもしれないというのがボルツマンの考えで
した。

 真空中に脳だけが生まれても、当然のことながらすぐに滅
びてしまいます。けれど記憶も備わって生まれますから、私
たちは一瞬の寿命のなかで、長い時間を過ごしているように
思いこんでいるわけです。人類の歴史も、子どものころの思
い出も、今朝飲んだコーヒーの記憶ですら、この一瞬に現れ
て消えていく刹那の幻ということになります。

 ほんとうは地球も太陽系も銀河系もなくて、宇宙すら存在
しなくて、脳だけが真空中にぽかりと浮いているのが、真の
世界の姿であるというのは、にわかに信じがたい恐ろしい空
想におもえます。しかしそれを否定できる科学的な根拠も今
のところは存在しません。


(4)確率

 原子が漂う真空中に、都合良く記憶を埋め込まれた脳がポ
ンと生まれるには、これまた気の遠くなるような天文学的な
確率が必要です。

 よく聞かれるのが、地球という都合の良い惑星が生まれる
確率です。それは箱の中へ部品を放り込んで振ってみて、偶
然に部品が組み合わさって腕時計になって出てくるほどの天
文学的に稀な奇跡だそうです。しかしボルツマン脳はそれを
さらに天文学的な数字で希釈した確率となります。
 推定では、ボルツマン脳は10^10^50年に一度の割合で発
生するとされています。私たち(一応ビッグバンと進化論を
経たほうの私たちとして)にとっては永遠と変わりのない時
間です。

 この永遠とも言える時間のなかでは、完全に0でない確率
は、すべて起こり得ます。脳よりももっと単純な物質なら、
その出現も遥かにたやすくなるでしょう。ハサミとか、ホッ
チキスとか、ケーキとか、あるいはネコなどが、原子のゆら
ぎにあわせて偶然に生まれ出ることは、ボルツマン脳にくら
べれば朝飯前かもしれません。突如宇宙に生まれ出た猫の表
情を想像すると、お気の毒のようでもあり、可笑しいようで
もあります。


(5)指数

 ちなみに10^10^50とは、10の10の50乗のことです。1
のあとに0がX個付きます。Xは表現する言葉が存在しないの
で伝えることができないのです。よって指数でしか表現でき
ない数になります。

 ためしに紙の上へ10の10の50乗を書いてみてください。
1秒に1つずつ「0」を書いていくと、約3.17×10^42年か
かります。宇宙の年齢が1.37×10^10年ですから、137億年
もかすむほどの膨大な時間がかかってしまいます。けっして
カップラーメンの待ち時間に挑戦しないようにしてください。

 また、0をひとつ書くのに原子がどれだけ必要か想像して
みてください。宇宙に存在する原子の総数は10^80です。
つまり、宇宙に存在するすべての原子をつかってもぜんぜん
足りない数の「0」を書き出さなければなりません。私なら
0を書くのに原子をすべてつかうくらいなら、10^80ぶんの
おやつをつくりたいです。

 ところが宇宙にはこれよりもさらに巨大な時空のスケール
がいくらでも存在するのです……


(6)おやつ

 いま、おもわずくらくらしたのは、ボルツマン脳でしょう
か。それとも奇跡の星に生まれた、しがない人生の果ての、
白髪の生えた脳でしょうか。

 まぁ、どっちであったにしろ、三時になればお腹は空くの
で、私はこれよりおやつをいただきたいとおもいます。どっ
ちの脳にしてもチョコレートの栄養が必要なのは変わりませ
んから。




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