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そもそも論への耐性

誘導するタイプの指導者が苦手だ。

例えば、芸術の講座で、生徒に写真を見せて「この山の写真で気になるところはどこでしょう」というような抽象的な質問をする。生徒が自由に答えると「違う、分かっていない」と言い、「この山は御神体なのにアンテナが刺さっているところがおかしいのです。それすら分からない感性なんて芸術家として最悪です」などと用意されている答えを言い、生徒を否定する。

あるあるだと思う。とてもこういうものが苦手。

答えが決まっている質問は実は何も聞いておらず、たんに生徒を否定して、自分の教義を注入しやすくするための道具として使われている。言葉は「意味の媒介」として働く誰にも平等に開かれた道具だけれど、ここではその平等性が失われていて、言葉が言葉のまま機能していない。言葉がそのものの意味とは異なる意図を含むのはよくあることではあるが(謙遜とかね)、この誘導的な質問では言葉の意図すら隠されている。

つまり生徒が信頼されていない。信頼されていないまま会話をするのは、私は子どものころから苦手だった。

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ところで、私はよく「そもそも論」をしてしまう。

そもそも論とは、「そもそも、このプロジェクトで目指すものは誰にとっての利益があるのでしょうか」などと、根本のところを問い直す論のこと。この「まぜっ返し」は詭弁の一つとして使われることもあるけれど、私の場合はそんな高度なことは目論んでいなくて、本当に分からなくなって聞いてしまう。話をしていると話題が空中霧散することはよく起こるけれど、でもディスカッションで得たいものがあるのなら、一度当初の目的に戻ってゴールの方向性を確かめたいなと思って発言してしまう。

例えば、今は私は片付けの連載をしているのだが、連載の最初のミーティングの時、片付けの方法や想定読者などの具体的なところを数人で話していた際、ふっと意味がわからなくなってしまい、次のようなことを言った。

「そもそも、なぜ片付けなければならないんでしたっけ。片付けたいと思ったことがないです。」

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今思うとこの発言は危うかったかなと思うのだけど(前述した、誘導タイプの人はこの種の発言を許容できない)、その場にいた皆さんは「わかる」と聞いてくれたのだった。そもそも片付けたいと思ったことないですよね。ほこりで死なないですよ。そもそも主婦は片付けにしろ何にしろ煽られすぎなので。でも、片付けのやり方を知ることでむしろものを探す時間が時短できてラクになったり、家が片付いてると気持ちがスッキリしたりはあるのではないかしら。

一番本音のそもそも思っているところを共有できたこともあって、今、この連載はとてもうまく行っている。そもそも論に耐性のあるチームで良かったと思う。

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昔、20代の頃、よく哲学の授業や哲学カフェに行っていた。私は高校生まで自分の考えを言葉にすることがとても苦手だったのだけど、大学で自分の気持ちを素直に言葉にすることを覚えて、よく哲学的な対話の場に出かけていた。そこで学んだ大きなことは、「良い対話は問いを更新する」ということだった。そこではっきりとした答えが出るわけではないが、より良い問いに出会える。例えば、「私らしさとは何か?」を持って行って「押し付けられた私らしさを、変えていけるのではないか?」を持って帰ってくるような。

今、社会人になってこういう場に出会うことは少なくなってしまったな、と思うことがある。以前、クリエイターのためのサロンのような場に参加してみたことがあるのだけれど、一部にはあまりフェアじゃない場もあった。そこには支配的な人がいて(どうやら、この人から仕事がもらえるらしかった)、その人が問いを発して、クリエイターがその問いに答えていくという形を取っていた。自分で問いを更新できなくなると、クリエイターはものを作れなくなる。

理想はやはり、言葉が言葉のまま機能する場所。私の作品も作品を作る現場も、できればずっとそういうところにいたい。




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