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どこへ向けてどのように語るのか

最近、SNSがむずかしい。
以前から難しいと思っていたけど、最近改めて難しさを感じている。特にTwitterが難しくて、なぜなら言葉の届く範囲を決められないからだ。

例えば。あなたはある部屋の中で話をすることになった、その部屋は変わった部屋で、場合によって部屋の広さが3畳になったり体育館になったりする。その部屋で話すならどんな話をすればいい?SNSで話をすることにはそういう難しさがある。

「自分の中ではこっそりセーフにしているのだけど、改めて言われるとアウトになる範囲」というものがあって、SNSではそのあたりが難しい。例えば消費期限切れのものを食べるかどうか?とか。SNSではこっそりと3畳で話していたいような話題でも、体育館で話しても大丈夫な形でしないといけない。拡散されるというのがTwitterのいい所だけど、でももともとどんな話がしたかったんだっけ?と思うときがある。

誰に向けて語りたかったのか

もともと、体育館で話すような話をしたくて漫画を描き始めたのではなかった。むしろ、みんなの前で出来なかったような話、たった一人でいる時に思い浮かべる本音の話をしたかったから、漫画を描いたのだった。

漫画や小説を読むと、過去の作家も、誰にも言えないような本音を物語の中に隠してきたことがわかる。物語の言葉は、ほんとうソーシャル・ネットワークの言葉とは対極の言葉なのかもしれない。ソーシャル・ネットワークでは言葉は優劣をつけたり敵味方を確認したりするのに使われるけど、たった一人でいる人の言葉には、そういうものはないから。

そういったことを考えると、SNSで漫画をやるのは相性が悪いかもしれない。でも、なかなかそうも言い切れない。なぜなら、SNSの中でも、孤独の中から出てきたに違いないきらりと光る言葉に出会うことが、ままあるからである。中にはたくさんのフォロワーが付いているものもある。

考えれば、私が今まで素晴らしい物語に出会った時、その物語は必ず社会の中を流通してやってきていた。ソーシャル・ネットワークにあるような「社会の言葉」と「物語の言葉」は、必ずしも相反するものとは言い切れないのかもしれない。「社会の言葉」の中に「物語の言葉」を隠すようなやり方があり得るかもしれない。

(「社会の言葉」とは人の機能に関する言葉、「物語の言葉」は世界を描写するための言葉といったところだろうか。社会学とかでこういう用語ありそうな気もする…。)

物語の言葉を書くコツ

ところで、「物語の言葉」を書くときにコツのようなものがあるとすれば、私が知っている限りではそれは「集中力」だ。描写する感情に集中する。主人公とできる限り同化する。

集中しているときに、これって恥ずかしくないかなとか、バカにされないかなとか、編集さんに怒られないかなとかクソリプこないかなとかの「社会の言葉」側の恐れが浮かんできたら、一つ一つしっかりと消していく。恐れを消して、消して消して消した先に、きちんと本音を言い当てた言葉、同じ本音を抱えている人がどこからでも見つけられる言葉を掘り当てることができる。少し論理破綻しているくらいの方がいい。それを物語の中に入れると、その言葉が物語を生きたものにしてくれる。そういう仕組みがある。

不思議なことに、本音を書いた言葉は言い訳をつければつけるほど届きにくくなってしまう。「こういう人に向けて」とか「もっとわかりやすく」とかの言い訳じみた演出を、一番「決め」のところではつけないほうがいい。一番静かにしておくのが一番届く。読者が、きちんと見抜く能力のある人だと信じることも、作品を作る姿勢として大事だと思う。

物語の入口と出口

「作者は出口を作りたがるけど、企画側が欲しいのは入口だ」という言葉を、どこかの編集さんのコラムで読んだことがある。出口とは「この物語を通してこういう気持ちになって欲しい!」ということで、入口とは「どうやってこの物語を手にとってもらうか」ということを指している。確かに、入口の設計がすごく苦手な自覚がある。「社会の言葉」側の仕事。

「物語の言葉」をきちんと探り当てることに集中しつつ、「社会の言葉」をうまく利用していくことが必要なんだろうなと思う。間違ってもその二つを混同したりせずに。


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