見出し画像

誰にとっても一回きりの価値

夜、寝付くまでの時間が長くかかる。その間スマートフォンでネット記事などを読んでいる。寝ぼけた頭で画面を見ていると、文字の一つ一つが見たことのない奇妙な記号のように見えてくる。そういうゲシュタルト崩壊の錯覚は一瞬だけで、すぐにまた文字は文字に戻るのだけれど、いつか幼い頃は本当に、これらが見たことのない奇妙な記号だったことがあったんだなと思い出す。

文字が読めるというのは不思議なことで、この記号と音声と意味を頭の中で同時に再生できるようになるまで、記憶も残ってない頃からたくさんの訓練を重ねてきたのだった。そしていつかこの訓練を手放すことも決まっているのも不思議だ。わたしは35歳だから、もし70歳まで生きるとしたら、いままで過ごしてきた時間をもう一度繰り返したら、体を返すことになる。こんなにたくさんのものを覚えてきたのにね。

----

録画していた100分de名著、ボーヴォワール『老い』の回を観る。

「老いは文明のスキャンダルである」と彼女は言う。スキャンダルとは醜聞、恥部のこと。文明において「成長」は大いに語られてきたが、「老い」については秘匿されてきた。人が何かを獲得することは良いこととされたが、何かを返していくことは直視もされてこなかった。ほとんど全ての人がその道を通ることが決まっているにも関わらず。

----

くすんだパープルのスカートをネットで購入して、届くのを楽しみに待っていた。到着したものを試着すると、素敵なスカート!とはならず、「おばあちゃん」感が否めない仕上がりだった。あえなく返品。もうそろそろ中年にさしかかってきたなあということを、実感することが増えてきた。でもセルフイメージの中ではまだまだ若い自分でいるのだった。(30代女性はワードローブ迷子なのだ。)

「『死』について語るとき、それはいつも『自死』のことととられた」と言っていたのは、自身の若い頃を述懐する池田晶子であったが、私の若い頃の死のイメージは自死のように、ぶつりときれいに途切れるようなものだった。実際はそうでなくひとつひとつの機能を少しずつ返していくらしいと最近気付き始めているけど、しかし老いにはまだ想像力が追い付かないのだった。わたしは実はあまり想像力がない。ものを作る人は自分に想像力があんまりないことを自覚するのが大事。

----

老いといえば。以前、コンプレックス商材の広告漫画を作る仕事を依頼されて、制作会社まで打ち合わせに行ったことがある。コンプレックス商材とはあれですね、「脱毛したら彼氏ができた」とか、「若返らないと旦那に相手にされない」とかのあれ。いろいろ折り合わなくてお話は無くなったのだが、興味深い話を聞くことができた。「脱毛しないとダメ」とか、会社の誰もそう思っていないということであった。

詳しく聞くと、様々な文言でテストを行った結果、コンプレックスを煽る形が一番コンバージョン(物が売れる率)が高かったということだった。担当の方はなんでこんなものがいいんでしょうね、などと言っていた。商業主義が行き着くと誰の思想も含まれていないメッセージに煽られることがある。恐ろしい。毛なんか、生えてきていいんですよ。

----

ぼうっとテレビをみていたら、ALSの患者さんの出ているドキュメンタリーがやっていた。ALSとは運動神経が侵される難病である。車椅子に乗ったままその人は文字盤で発信をされる。

「生きる」には「ただ生きる」という価値と、「どのように生きる」という価値があります。後者ばかりが語られ、前者の「ただ生きる」価値はないがしろにされがちです。「ただ生きる」そのものに尊厳があるのです。

ただ生きる、絶対に交換不可能な価値について考える。絶対に交換できない誰にとってもたった一回きりの価値について。そういうものを今手にしている。

サポートありがとうございます。とっても励みになります。いただいたお金は、描き続けるための力にします。具体的には、東京の勉強会への交通費とか、おいしいものとか‥です。