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続けるための目印

4年前に描いた漫画に、「いいね」をしてくださった方がいた。

読み返すと、荒かったがこの時はこの時なりに表現したいことと格闘していたのだな…と思える出来だった。今見るとシーンの遷移がわかりづらかったり、状況の説明が足りていなかったりするので、これは読者は読みづらいだろうと思うのだけど(私は、やろうとしていたことを覚えているから読めるのだけど)、自分なりに感じたことを、絵や言葉といった記号に落とし込む試みを愚直にやっていて、その意欲がある所はそれなりに読むことができるなと感じた。

私にとって作品を作る基本は「自分の身に起きたことを、初めて見る人でも分かるようにかくこと」だ。もう少し細かく言うと「自分の感じていることと、表現されたものの距離を客観的に認識して、その距離をできうるかぎり詰めること、そのための技術を磨くこと」。続けていると、少しずつだけど描ける出来事や感情の範囲は広がってきているという実感がある。その実感があるうちは続けられる。

SNSはバズれば勝ちなのか

SNSなどのインターネットは、注目を浴びた者が勝つゲームだと言われている。過激なことを言って、それに賛同したり憤慨した人がたくさん話題にして、話題になることによって自分のチャンネルが閲覧され、報酬を得ることができる。ゲームのルールを決めるのは往々にして「何によってマネタイズされるか」であるが、閲覧されるほどお金がもらえるなら、そういう戦い方をする人も出るだろうと思う。しかしそのやり方で続けられるだろうか。

私はできれば尊敬する人に作品を読んでもらいたいと思う。

自分の感情の事実を作品に描いて、その事実を知っている人に見つけてもらう。労働や生産性を優先するような生活で疲弊している人に、我々は当たり前にこういう事実を知っていますよね、ということを、思い出していただく。それは、私が私の好きな本を読んで、その本と行ってきたコミュニケーションの形そのものでもある。読者を尊敬するというのは、肩書きが偉いと思うとかそういうことじゃなくて、知っている事実を作品をとおして密かに交換する、その心性を尊いと思うということだ。

(最近発表しているもののポップさに対して、言っていることが大真面目でちょっとはずかしいが、基本はそういうことだ)

過激なことを言って人を操作して、「どうせこういうのが受けるんだろう、どうせ、どうせ」。そういう、人を馬鹿にした気持ちで行う仕事は続けられるだろうか。続かないと思う。今それをやっている人は勝手にすれば良いけど、これからやろうとしている人にはおすすめしない。人は人を馬鹿にするより尊敬する方が気持ちがいいものだから。敬意がないと続かない。

仕事を続ける上では、数字を稼ぐとか、こなさなければいけない条件があって、きれいごとではいかないのかもしれないけれど、でもじつは理想は知っていないと目指せない。私はいま幸いにして売れていないので、本音を制限する理由もない。こうやって書けるタイミングで本音を書いておくことが、わりに大事だったりする。

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涼しくなってすっかり長袖の季節です。私なりに奮発して良いワンピースを買ったら、一週間後にタイムセールになっていて、おのれ…、という気持ち。でもいいお洋服を買うと気分がいい。幸福の一つの形態は「期待」だと思っているけど、疫病のせいで期待も持ちにくくなってしまいましたね。なんとか小さく小さくでも期待していきたいところです。



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