恋におちて(1984年)

不倫映画である。
僕はロバート・デニーロではない。
そう何度も確認しながらこの映画を観た。僕は日本人であり、カッコいいちょっとだけ後退した髪もないし、目は捨てられた子犬のようではないし、お金もない。

不倫を基に作られた創作話はたくさんある。最近だとひまわり、であったり、失楽園(いきなり古い)などなど。実はそんなに観たことがない。あったとしても名前を忘れてしまっている。誰がそんなのを観るんだろう、と不思議に思っていた。誰が、そうした中年の油キットキトの男女が家庭を念頭におきながら、しかし止むに止まれず男女が惹かれあってしまうファンタジーを観たがるのか。

ダイ・ハードやロボコップの方が面白いだろ、どう考えても。百歩譲って、フィールド・オブ・ドリームズとか…って、要するに男女のラブに関わることが苦手なだけでした!

解散。

ってこれだけじゃ寂しいので、もうちょっと何がよかったか書きます。書かせてくださいお願いします。初note投稿なので、しかも謎の仕様のお陰で図のような

謎の態勢で書いています。
iPadでテキストを投稿するには、アプリをダウンロードしないといけません。そのアプリをiPad上で起動して、そこからこうしてコキコキと書き込む訳ですね。キーボードは、4000円くらいのiPadを差し込む溝みたいなのがついてるやつです。surfaceを買うより50倍安いのでそうしました。本当にありがとうございました。

すごい貧乏くさいですか?
漂ってきますか?
(パタパタ、と尻のあたりを扇ぐ)

でも、このロバート・デニーロとメリル・ストリープ主演の「恋におちて」は違います。貧乏臭さは一切漂わない。この世界にはお金に関わる物事が生じない。安心してみていられます。「来月の携帯代は…」とか、「アパートの更新料そろそろだな…」とか、1ナノ秒も頭によぎらない。これは人を映画というマジックに取り憑かせる上で大事なところなんだな、と思いました。ダイ・ハードのブルース・ウィリスだって銃を乱射する時に
「チキショウ! この弾丸は一発12ドルなんだ! 死ぬ時までウォールマーケット12時間分の時給をくらいやがってこのサノバビッチ!」
なんて叫んだりしない。ちょっと親近感湧きますけども。

なぜダイ・ハードを持ち出すんだろうね。好きなんです(DVD持ってないくせに)。

この映画「恋におちて」の良いところ
書こうとして、大分寄り道してしまいました。良いところ、良いところ。

三つあります。
今思い付きました。
三つ挙げます。

①音がすごくいい
僕は映画を見たらやっぱり背景だとか、構図だとか、光線の具合とか、そういうのに目が行きがちです。映画なんだから当たり前だろ!、と仰るのはよくわかる。でも音が良い、と思った時はあまりない。この映画は、街の中の雑踏の音がとても良かった。人が大勢歩いていて、衣服が擦れる音がして、歩く地面と靴の音が重なって響いて、という当たり前の事が映画になってよりクッキリ見えた。音って見えるんだ、などと中学生のポエムみたいに思いましたよ。それと、デニーロが奥さんに
「あんた何か隠してるでしょ」
って詰め寄られるシーンがある。
「ちょっとくらい嘘ついたら?」
なんて、体の関係はないけど、ほとんど心を奪われている女性がいることを白状させられてしまう。このシーンは二回観た。給食費を盗んだ生徒がみんなの前で自白させられるような、辛いシーンだ。その後ろで流れている音が、壁掛け時計の
「チックタックチックタック」
だった。夜の子供が寝静まったテーブル、夫婦が話をしている。その音の響き方は不穏な雰囲気を醸すし、大体何時くらいかわかる。どうして時計の音は深夜にしか聞こえないのだろう? 幼い記憶と結びついているのだろう。

②ファックなし
身も蓋もない話だけど、しない。僕は普段こういう不倫映画を観ないので、先入観から役所広司的な、こうアフン、オウフ…イエァ…日立のプラズマWooo…みたいなのがあるんだろうなぁ、と思っていた。カマーンベイビィ、とか(喘ぎ声の問題ではない)。もちろん、やりかけの所もある。デニーロも言ったら男の子だからね。やりたい盛りだよデニーロ。それは仕方ない。友達の家まで借りて、おファックに持ち込もうとする。でもメリルちゃんは断る。偉い。潔く引くデニーロも偉い。メリルちゃん、きっとテレビはパナソニックのヴィエラ派だったのだ(違うだろー!)。…というのは冗談として、結果ファック・フリーであったことがこの映画を名作たらしめている、と爺は感じておるのじゃ。

③東海道線
僕は映画が好きとは言え、映画館より家のテレビで観る事が断然多い。具体的にはNHKのBSプレミアムの映画を片っ端から録画して、寝なければ最後まで観る。寝たら(よっぽど世間的に重要とされている作品じゃない限り)消してしまう。それを繰り返している軟弱者である。戦時中だったら拷問されて死んでいるだろう。映画館で観ない映画ファンは映画ファンを名乗るな派にとっつかまって、裸で逆さ吊りにされて水を張ったドラム缶にザブザブ浸かれながら竹刀でバッシバシ叩かれて死んでいる筈だ。今が
2018年で本当によかった。

この映画の冒頭はどうみても熱海あたりの東海道線が走っているド地味なものである。緑地にオレンジの塗装がされている例のアレがズバー走ってるイメージでほぼ間違いない。言ってもアメリカ映画なんで、絶対東海道線ではないのだけど、僕が一目見て予感したのは
「絶対寝るわ、これ寝るわ」
という直感に近いものだった。でも、最後まで寝なかった。むしろ、終わった後、謎の興奮に包まれていた。こいつあぁスゲエと。不倫映画のくせに面白いと。それは東海道線が走る冒頭の身近さ加減が実は大きいのではないか?

東海道線を利用して通勤している人
マイカーで通勤している人
仕事をしていない人
会社をやめて休んでいる人

色んな事情を持っている人達がこの地球上に生活している。その人達が共通して思い描けるのは、駅や電車内なのではなかろうか。そして、我々が今日や明日すれ違う人達の中に、見た目は普通のおっさん・おばさんだけど、実は内面、本人が制御仕切れない程、異性に恋い焦がれてしまった人がいるのではないか。たまたま結婚して、家族がいる状態で、「恋におちて」しまったらもう、その先の可能性は見過ごされるべき「物事=恋」となってしまうのだろうか。

東海道線は普遍の塊として今日も走っている。その中に誰が乗っているのか、東海道線は知らない。デニーロほとんどの場合、乗っていないだろう。でも、内面デニーロ、メリル・ストリープはたくさん乗車しているのではなかろうか。

先に書いた、壁掛け時計が鳴る印象的な場面で、こんなセリフのやりとりがあった。
デニーロ「でも、一線は超えてない」
その奥さん「その方がより悪いわ」

目に見えやすい変化よりも、見えない違いや変化の方がより重要に思える。僕はそういうちょっとした違いに目ざとく気付ける男の子でありたい。…40代の既婚のおっさんですけど。


べ、別にお金なんかいらないんだからね!