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私はロランス Laurence Anyways

愛ってなんなんだろう。

ロレンスとフレッドは、愛し合ってたというより、惹かれ合ってた?感じがするいや、もうこれは一言で表してしまうには野暮だ

二人はその人生の中で出会って良かったのかどうかを問うのも愚問かもしれない、
でももし出会わなければどうなっていたんだろう?
私はそういう人に出会っているか?

愛って本当はすーーーーっっごく重いものだと思う。少なからず私の今までの人生にとってはそうだ。(こんな奴でも誰かには愛されている、いた、瞬間もある。。)一人の人間が受け止め切るには、なかなか重いものだと思う。今この現代で、インターネットとかで切り貼りされる

ような愛してるの言葉や、チャットで飛び交う「好き」「すき」「love」の文字に、どれだけその重みが含まれているのだろう?
夜に暗闇で光る手のひらサイズの縦長の画面から浮き出るその文字だけで、どれだけそれを伝えることができるんだろうか。
どれだけラインで好きって言われても、直接好きと言われたとしても、「ああ、これが愛か!」→「私も好き!愛してる!」って心から言えるか?いや無理でしょう。何にも感じられなかった。 大体ああ、あの時友達に、親に、恋人に愛されてたなぁって後になって気づくのがオチ。愛されている最中なんてそんなの重すぎて、受け止めきれなくて情報過多で溢れ出してるから気づけない。噛み締められない。そこまでの器をまだ私は持てていない。

フレッドに激しく感情移入した。
ロレンスの告白を受け入れて、一生懸命に向き合いすぎて、から回ってしまうその真面目さ、ひたむきさはレストランで爆発した……涙が止まらなかった。
この映画ではそれが性同一障障害の恋人をもつノーマル女性の苦悩として描かれているけれど、それはあくまで記号、手段でしかなくて、こういう風に、相手を理解して愛そうとするあまりに相手より先に行き過ぎてしまうというか、そうやって失敗して自己嫌悪して、っていうことって少なからず合って、
それって大抵は相手にはわかってもらえない&相手に言えないことで、すーーごく辛いんだよね。誰にも言えない苦しみ。

まじで運命感じたのは、有名なシーンで私の知ってるModeratの曲が使われていたこと。たまたまだとは思うけど、、

あとアーティスティックな描写がまじでいかしてる。
子供ができたことを暗示する、テーブルに置かれた黒の山の写真と塩の🧂←これ。ずるいでしょ、、
他にもシャワーを浴びたり、猛吹雪だったり、滝が降る水の象徴的なシーンがちょうど中だるみしそうなタイミングで使われててすごい。

それにしても最後に二人がバーで再開しているシーンはずんと来るな、、あれ私もこんなことあった気がするな……??というかゆい気持ち……

とにかく傑作でした。グザヴィエドランは、抱えた孤独をちゃんと美しく沢山の人に届けてくれる人だ。

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