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わたしは空っぽのいれものである

じぶんが空っぽのいれものだと感じることが多い。

どれほど情報のインプットにはげんでも、経験をつんでも、なにかを身につけた気がしないし、それを誰かに伝えて有用だと思ってもらえる気もしない。じぶんは、どこかに穴のあいた箱なんじゃないか、と思える。

たとえばわたしは無意識のうちに「これはみんな知っていて当たりまえだから伝える必要はない」「わたし程度のスキルの人間ができるなら、誰にでもできる」と判断して、たいていの情報や経験はそっとしまったままにしてしまう。そしてときおり、そうやってしまいこんだ情報を取り出すと「それってすごい」と家人を驚かせることがある。もちろん、どの情報に価値があるのかを判断することは、内側にいる人間にはむずかしいけれど、経験のなかには「だれもが当たり前に知っていること」でも「価値のないこと」でもないものもわりあい多いようだ。

つまり、この入れものは、空っぽではなく、まあそこそこの情報がつまっている。ただ、それらを適切な文脈においてその価値を評価し、取り出すという作業になれていないので実質的に空に見えるだけなのだ。

どんな分野でもつねに初学者や初心者がいて、ちょっと先にはじめたひとの経験談を聞きたがっている。すべてを網羅した無謬の情報だけが「有用」なのでもないし失敗やつまづきだってりっぱに役立つ (じゃなきゃリクルートの『ゼクシィ』みたいな結婚雑誌が毎月つづくわけがない。多くのひとにとって結婚は初めての経験だからどうすれば失敗をさけられるのかを知りたがっている)。

わたしはこれまで、ずいぶんたくさん、いろんな種類のしごとをしてきた。いろんなしごとについて中途半端なジェネラリストで、なにかひとつに秀でたスペシャリストとはいえない気がする。明文化されていないしごとのコツはたくさんあるけれど、「きっとみんなもっといい方法を知っているから」と、たいてい自分のなかにうもれたままにしている。

でももしかしたらそれは「当たり前」などではないかもしれない。

ずいぶん前置きがながくなってしまったけれど、この note には、そうした「誰かの役に立つかもしれないけれどじぶんのなかにだけ眠っている情報」を空っぽのいれものからひろいあつめていければいいなと思っている。



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