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存在(being)自体に良い悪いということはない。
この世に存在する以上、全て必要。


興味深いことに、
存在(being)にダメ出しをしていると、
言動(doing)にダメ出しを喰らうことが増える。


存在(beign)を許可できると、
言動(doing)が受け入れられることが増える。




日本語とは本当によく出来ていると思うのだが、
【間違い】は、”間”が違うだけで、
それそのものの存在の可否を問うことをしていない。


存在(being)に許可ができてないと、
自分のペースで物事を進められず、リズムが崩され、間が悪くなる。
そうすると、言動も状況とかみ合わなくなりチグハグになる。
これが、『間違い』の元になる。


存在(being)全てを受け入れることができてると、
当然、自分のペースでのびのびと過ごすことができるようになる。
そうすると、周囲との調和も取りやすくなり
順調に物事が進むようになる。


間違いの反対の言葉は、”正しさ”ではなく
【(調子などが)合う】ではないだろうか?


ちなみに、間違いは、英語で【mistake】。
mis・take ”取り違い”である。



言葉とは、本当に良くできているものだと思う。
けれども、バベルの塔以降、分断され、
本来あるべき言語は、バラバラにされた。
それにより、現存する言語に発音・語意・文法全ての意味で
完全体なものはないのではないか?と思う。


単純に、例を挙げてみると、
中国語は、時制に関することが欠けている。
日本語で【懐かしい】という言葉を、他の言語に訳すのは、難しい。

言語が何かしら欠けているということは、
文化にも欠けが生じているのではないだろうか?


なんだか、そんなことを、
ふと思うことがある。

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