【戯曲】ゴドーをすすりながら

(明転。喫茶店のカウンター。男女二人が横並びに座ってコーヒーを飲んでいる)

A: 読書というのは「参照を増やす」ってことだ。
B: 相変わらずよく分からないわ。
A: 「ゴドーを待ちながら」って知ってるかい。
B: 文学作品でしょ、昔学校でタイトルを習ったきり。あなたが読むならきっと、小難しいんでしょうね。
A: 俺はギャグ漫画も読む。しかしまぁ、今回に関して言えば君はあながち間違っちゃいない。フランス語で書かれた戯曲さ。舞台の脚本、と言った方が分かりやすいかな。いや、ついこの間読んだんだ。その作品中、二幕でヴラジーミルはこう言う。「気分というものは、どうにもならないよ。きょうは一日じゅう、すばらしい気分だったんだ。」その台詞を読んで俺は思い出した。ある朝、目を覚ましてカーテンを開けたら雨が降っていた。それで嬉しくなって俺は泣いたんだ。気分というものは、どうにもならないよ。急に酒を飲んだみたいにハイになることがある。
B: あなたはきっと病気だわ。
A: そんなに簡単に片付けちゃつまらないな。まぁ、何かしらの異常はあるかもしれないけどね。そして続けてこう思った。もし雨を見て泣いたのが、「ゴドーを待ちながら」を読んだあとだったとしたら?俺は雨を見ながら思っただろう、「この感情はヴラジーミルの一節と一緒じゃないか」ってね。「気分というものは、どうにもならないよ。」要するに行ったり来たりさ。ある本を読んでいて自分の体験に似ていれば「あの体験に似ている」と思う。ある体験をして、何かの本の一節に似ていれば「あの本に似ている」と思う。読書ってのは参照を増やす作業に他ならないんだ。本は読むかい?
B: 活字は嫌いなの。
A: 何故嫌いなんだ?
B: つまらないのよ、本に面白いこと書いてた試しがないわ。あ、まぁ強いて言うなら雑誌は読むけど。
A: そこには何が書いてある?
B: 哲学以外の全てよ。お化粧のこととか、ファッションのこととか、あとは家事に役立つこととかね。哲学みたいに、生活の役に立たないことは一切書いてないわ。哲学者のあなたは馬鹿にするかしら。
A: その中に哲学を見出すのが哲学者さ。それに哲学は哲学者が生きる上では、大いに役に立ってるんだぜ。大きな括りでは、生活の知恵と同じジャンルだと言ってしまっていいかもしれない。生活の知恵と哲学の知恵の大きく異なるところは何を一番重要視するかだ。生活の知恵で一番重要なのは「結論」、哲学の知恵の場合は「過程」だ。生活の知恵を取り入れたいと思った時、そこには矛盾を含んでもいい。大切なのは今生きている自分が少しでも安心して、幸せに感じられることさ。素敵な洋服を着たり、収納スペースを増やしたり。今生きる自分が幸せなことが正義の世界だと言える。一方で哲学の知恵は、その結論付けにおける過程の中に矛盾を含む事を許さない。例えば、素敵な洋服を着て幸せになる時と、素敵な洋服を着ていないのに幸せになる時があるとしたら、哲学者は素敵な洋服を着る事を疑わなくちゃいけないのさ。「素敵な洋服を着る事は、本質的に幸福に結びつくか否か」ってね。結局のところ「不快な気持ちをなるべく抑えて幸福に生きたい」という部分はどちらも変わらない。哲学者が苦しんで見えるのは、この世が矛盾だらけだからだと俺は思う。話がブレたな。ゴドーの話をしてたはずだぜ。
B: あなたが突然、読書するかどうかって聞いてきたから。
A: そうだ。そして俺はゴドーを読んで「読書する」ことの他に「考察する」というのはなんたるかということも考えたんだ。結論から言えば、考察するということは「自分の思い出にこじつける」ということさ。考察をしてあたかも正解を出したみたいな顔をしてる奴らもいるけどな、俺は反対だ。作者が何を思ってその文章を書いたかなんて分かりっこないんだ。その時、嬉しかったから「悲しかった」と言ったかもしれないだろう?
B: 世間は、あなたのような人のこと「天邪鬼」って言うわ。
A: 俺は世間のことを「日和見主義」って言うんだ。いや、日和見主義者の別名こそ世間、というべきか。とにかく、作者の真に意図するところは受け手には一生分からない。分かり得ないんだ。とすれば我々に出来ることはたった一つ。自分の人生に重ね合わせて「共通している」と思い込むことだな。「悲しいから悲しかった」と思ったことがある人は、本を読んで「分かるなぁ」と言う。「嬉しいから悲しかった」と思ったことがある人は、本を読んでやはり、「分かるなぁ」と言うだろう。それが俺の思う考察だ。考察なんてのは何通りあったっていい。何通りもあって然るべきなんだ。脳みその数だけ無くちゃおかしいよ。
B: 私には「嬉しいから悲しい」があまりしっくりこないから、そこから先がよく分からない。
A: 俺が小学生の時なんの授業が一番嫌いだったか分かるかい?
B: 詩の授業かしら?
A: 何故そう思った?
B: だってポエムなんて、あなたには感傷的すぎて「ロジックが無い」とか言い出しそうだから。
A: なるほどな、しかし残念、俺が嫌いだったのはことわざの授業さ。
B: ことわざ?石の上にも三年?
A: そう、そのことわざ。
B: 何故ことわざが嫌いなの?
A: ロジックが破綻してるからさ。
B: 結局はそう言うのね。
A: ことわざっていうのは俺に言わせりゃ、言い訳だ。こじつけ、と言うべきかな?小学五年生の時だ、国語の授業で俺は「善は急げ」を習った。何かを成功させたいなら急いで取り掛かった方がいい。小さい俺はなるほど、と思った。翌日の国語の授業で同じ教師が何を言ったと思う?「急いては事を仕損じる」と言ったのさ。急いだら失敗するぞ、って。授業を聞いてた俺はノートを取る手を止めて「おい、昨日自分が言ったことを忘れたのかよ」って思った。教師に直接それを言えるほど元気な子供じゃなかったけどな。その翌日に俺は「嘘つきは泥棒の始まり」を習った。その翌日に「嘘も方便」。その翌日に「二度あることは三度ある」。その翌日に「三度目の正直」。
B: 国語の授業が多い学校ね。
A: 例え話さ。でも本当にそれらのことわざ全てを同じ教師から習ったんだ。俺は混乱した。どっちが本当なんだよ、って思った。しかし、大人になってようやく、ことわざから学ぶべき事は中身の意味じゃなくて、ことわざというコンセプトそのものだったのだと気づいた。人は矛盾したセオリーを素知らぬ顔をして投げかけ合う。この年齢になって俺は思う。生きて何かしらのセオリーを見つけ出すことはことわざの一つを作り出すことに過ぎない。全く矛盾したことわざが明日、自分自身の口をついて出ることに気付いてないんだ。一瞬一瞬、自分の体験にこじつけをしてるのさ。…どうした?
B: 母親のことを思い出したの。
A: 君のお母さん?
B: ええ。私一人っ子でね、母が26歳の時に私は産まれたの。小学生になるあたりから、かなり色々な思い出が鮮明に思い出せるんだけど、その頃から母親に「良いお嫁さんになるためには何をするべきか」を随分沢山教えられたわ。早く結婚した方が健康な子供を産めるだとか言って。「ウーマンリブとかいうのが流行っても、結局女は若いうちに愛する人と結ばれるのが一番よ」って言われたの。でも私が13歳の時に父親の不倫が見つかって、そこから離婚が成立するまでの6年間、母はとても苦しんでいた。夜中に一人で泣いているところを頻繁に見かけたわ。私、何て言えばいいかよく分からなかったし、それに何故だかすごく恐ろしく感じていつも声を掛けられなかった。私が大学に上がった頃、ようやく父親と完全に縁を切ることが出来たの。きっと母にとってはとても長い6年間だったでしょうね。そのあと私にも彼氏が出来たけど、その報告をすると母親は「間違った男と結婚して時間を無駄にするくらいなら、一人で生きる力をつけなさい」って言ってきたの。あれはきっと、あなたのいうこじつけね。
A: もしかして俺は君を嫌な気持ちにさせたかい?
B: 全然そんな事ないわ。それ以来ね、私は彼氏が出来ても報告するのは辞めたの。母のことを気の毒に思ったからよ。
A: 矛盾した事柄を受け入れるのはポジティブに生きるための一つの力さ。矛盾を受け入れられないのは一種の賢さではあるかもしれないが、生きる上で障害になることもあるだろう。哲学者の話がまさにそれだ。君のお母さんは言わなかったかい?離婚したあとも「娘だけが宝だ」って。
B: よく言っていた。一人娘だからとりわけ大切にされたの。
A: 離婚や元旦那のことは憎いけど、目の前にいる娘は愛おしくてたまらないのさ。これもまた矛盾だろ?その父親がいなければ君は生まれなかった。もしかしたら君のお母さんは今独身でいて、その事を憎んでいたかもしれない。じゃあ、昔にその親父さんと結婚したことは正解だったか?誰にも分からないさ。憎い体験から、涙が出るほど愛おしい存在が生まれることもある。人生というのはそれに折り合いをつける作業の繰り返しだと俺は思う。その時に抱いた感情とそれ以前に起こった出来事の辻褄を合わせて、タイトルをつけてるんだ。そうすることで感情に整理をつけて、また明日からなんとか生きることができる。
B: 唐突な質問をしてもいいかしら?
A: なんだい?
B: 何故今日はいつものバーじゃなくて喫茶店にしたの?
A: アルコールが入ってなくてもこの発言をしたんだ、って証明しなきゃいけない時がある。周りに対してもそうだが、何よりも自分にそれを言い聞かせなきゃいけない。酒を飲んだからあんなこと言ったんだと思ったら恥で死にそうになるんだ。なんだ、酒を頼むかい?
B: いいえ、コーヒーのおかわりを貰うわ。

(暗転。)

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