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ただ消費されるだけの作品にならないことの凄さ

テレビアニメ「鬼滅の刃」遊郭編 第一話を見ました。Amazonプライムでも配信しているので、iPhone SEの小さな画面で夜な夜なコソコソ見たんですが、映像が想像以上でした。

遊郭の街並みの奥行き、華やかな障子の柄の作り込み、タイムラプス的な映像の再現。数年前までのアニメの感覚とは違うなと、魅了されました。

昔のアニメを振り返ってみると、ただ消費するだけの量産品のような扱われ方をされていたように改めて感じます。1990年代の頃が一番そういった傾向があったかなぁと勝手に思ってますが、話数を稼いだり、ただ続けていくことだけに意味を見出しているような。

当時は子供なので、そんなこと微塵も思うことなく楽しんで見ていたんですが、今だから感じるのは、なんだか「見せられてる感」があったなぁと思うんです。いや、自分が見たい!って親に言ったからテレビで見ていたわけなんですけどね。

うまく言えないですが、見たいのはそこじゃないけど、そうやって作られてるんだから見ざるを得ないというか…。「これ同じ場面、前も出たけど?」とか「話の中ではほんのちょっとしか時間経ってなくない?」みたいなことが結構たくさんあって、物語とは違う部分、その世界を外から見ておかしいことに大人は突っ込んでいました。

その時は「大人からみたアニメ」と「子供の自分からみたアニメ」のギャップを強く感じていて、「(きっと大人はこの場面を冷ややかに見てるんだろうなぁ)」ってよく思ったりしていました。セーラームーンの変身シーンなんかは、なぜか自分がめちゃくちゃ恥ずかしくて、毎週好き好んで見てるのにこのシーンだけは背筋がぞわぞわしていました(笑)。ひねくれてますが、「これを好きだと思われたくない!」みたいな感覚があったんだと思います。

楽しいんだけど、提供されるものを見ざるを得ない。見たいんだけどこれじゃない。こう言い連ねるとかなりわがままな視聴者だったんですね(汗)

少しずつ大人になって、アニメ業界や声優業界の厳しさみたいな、物語を作る人たちの置かれる状況が耳に入ったり理解できるようになってくると、あぁなるほど、そうならざるを得ない状況ってあったんだなって”大人の事情”がわかるようになります。

だからこそなんですが、近年のアニメの作り方が、一部かもしれませんが、個人的にすごく嬉しい。ちゃんとそこに登場人物たちが生きていて、生きている世界があって。原作を一脱せず、パラレルワールドに仕立てない純粋な映像化。マンガでは表現しきれないことをアニメが実現するということに徹する。そんな風に見えて、それが心底嬉しいです。

アニメの放送が原作の連載を追い越して、全く違う最後を迎えるというのが個人的にイヤなので、登場人物たちがちゃんとした物語の終わりを迎えられるようにしてほしい、、と思います。

昔からアニメを作ってきた人たちのかけてきた時間や労力というのは決して否定したくないし、むしろデジタルのない時代に手仕事で築いてきた作品には脱帽しかないので、感謝と敬意をはらいつつ、これから作られていくものの多くは「消費されるだけ」にならない作品になってほしいと、改めて切に思うのでした。

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