5年前、じぶんのために頭を下げてくれた人が亡くなった。

その人もぼくも所属していた団体で、違反行為をしたぼくの処分をどうするか話しあう会があった。その場にいちばん最後に入ってきたのが、その人だった。足を悪くしていて、つえをつきながら入ってきた。会がはじまると、ぼくは謝罪を終えて早々とその場を去った。のちにその会の参加者が、その人の発言を教えてくれた。「できれば長谷川を除名にしないでもらえるとうれしい」と言っていたと。12年前にその人が始めた広告学校に通ったのが、最初の出会いだった。1度もほめられないまま卒業したが、学校の同窓会、神輿担ぎ、その人が若手クリエイターたちを励ます会、出会うチャンスにはすべて顔を出した。こんなことを言っていた記憶がある。活躍していないから会うのが気まずいみたいな人がいるけど、こっちからすると、顔を見るだけで十分うれしいもんだよ。その言葉をいいように解釈して、会えるときは会おうと思った。学校は無料で通えて、タダでおいしいごはんもごちそうしてもらえた。なんの義理もない教え子をずっと気にかけてくれる人だった。そんな人に頭を下げさせたことは、ただただつらくて思い出したくないできごと。会を去って仕事に向かっているときに、その人からメッセージがとどいた。「きっちりスーツ着て謝罪に行け」。生まれてはじめてスーツを買った。これから増えるかなと思い、葬儀にも使えるものにした。3年半前に1度、そのスーツを着た。つぎはいつ着るのかな、なんて想像もした。まさか、その人の通夜と葬式で、そのスーツを着ることになるのか。想像もしていなかった。じぶんの父よりもずっと若いしバリバリ仕事をされてたので、このご時世が落ち着いたら、また会えるだろうと決めつけていた。人の死を想像するのは苦手だが、じぶんの死を想像することはよくある。きょねんも死にたくなった。顔も知らない人にも、顔を知ってる人にも、ことばで殴られた。ことばで殴り返すことはしたくないが、じぶんが考えていることを言わないと、生きていけないと思い、じぶんの見解を投稿した。その投稿のコメントの中に、その人の顔があった。「久しぶりにメシでも行こうか」。「ありがとうございます!連絡させていただきます!」と言って、連絡しなかった。誰とも話したくなかったし、コロナもあったので、連絡を怠った。ウソをついた。「こんど飲みに行こう」という軽いことばが嫌いなのに、おなじことばを使う人間になっていた。このいいかげんさが、頭を下げさせてしまった原因なのかもしれない。そんななか、通夜と葬儀に行くのを迷うじぶんがいる。参列者の中には、ぼくの顔を見たくない人もいるだろう。その人がほめてくれた行動がキッカケで生まれた仕事がちょうど葬儀の日にある。この考え方が頭おかしいんだろうなと思いつつモヤモヤしていると、何言ってるの?行きなよ。行くんだよ。と言われた。やっぱり、通夜と葬儀には行く。顔を見るだけでいい的なことを都合よく解釈していいのかわからないけど。そもそも、その人のことをこういう場に、じぶんなんかが書くのも失礼な気もする。この文を読んで不快に思う人もいるだろう。でもせっかく文を書いたし、もしもぼくとおなじように誰かの葬儀に行くことを迷っている人がこれを読んでいるとしたら、必ず行ったほうがいいと思う。会えなくなった人の顔を見る時間はもう永遠に来ない。

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