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『あの出来事』

[Nov. 18]

新国立劇場
シリーズ「ことぜん」Vol.2 『あの出来事』

クレアの事件後の行動や銃乱射犯への対峙の仕方は正直ちょっと気持ち悪い、私には理解し難いなぁと思っていたんだけど…
この物語のモチーフであるウトヤ島の事件に関する記事を読み、そうかこれはそのテロに対しノルウェーが国として取った姿勢なのか!と知ったところから思考が始まった。

劇中で社会的弱者(確かここの台詞は言葉を濁しながら様々な境遇の人を想定できるようになっていたと思う)のための合唱団が襲われたというよりも、事実はもっと明らかに政治的。極右思想の男が、移民を背景に持つ政党の青年部を襲っている。
しかしこのテロ犯はきちんと人権が保障され整った設備の中で懲役21年。ノルウェーは憎悪犯罪に更なる憎悪や刑罰で答えることを拒む、と。

「ことぜん」視点で考えると…
クレアの思考・行動は彼女の個性・個人的なものかと思って観ていたけど、そうじゃなくて逆にこれは「全」で、その影にいろいろあるに違いない「個」は…ってことになってくる。

「全」…タテマエ…「多文化主義」
「個」…本音… "排他感情" 

アボリジニの少年の所へイギリス人の船がやって来る話。
戦士のトランスみたいな話。
単一文化が望ましいと思うことをレイシズムと言うのならみんな多かれ少なかれレイシストだ、とか。
「多文化」が良いなんて言えるのは上から目線で見てられる時だけだ、とか。
少年が投げつけてくる言葉に、君の考えは間違ってるとか、私はそんなこと微塵も思ってませんなんて、決して言えない。
クレアだって、そうなんじゃない?

あの少年は誰もがタテマエの裏に持っている "排他感情" の具現化で、クレアは(ノルウェー社会は)それと対峙している、と見ることもできる。
そう考えるとラストの見え方が全然違ってくる。
やっぱり少年を毒殺できなかったという点に人間の良心とか理性とか繋がれる希望とかを感じるのではなくて、やっぱり排他感情を駆逐することなんてできないじゃん!ってことになる。
お茶のカップを払い倒したクレアの表情、やっぱダメだ…という絶望の表情に思えてくるよね…

"排他感情" って、私たちの中に、どうしようもなく在るのだ。
すごく身近な例で言うとさ…
(観劇クラスタ向け。フィクションです)
例えば自分が常連として通ってる劇団の公演にさ、看板俳優のTV出演を機に突然"にわか"のお客さんが大勢押し寄せることになったとしたらさ、そういう人たちはあまり観劇マナーを知らなかったりさ、当然深刻なチケット難にもなってさ、そしたらどう思う?
観劇人口が増えないとヤバいよね〜とか、この劇団をたくさんの人に観てもらいたいよね〜とか日頃から思ってた筈だけど、さぁどう思う?
なんか客席の空気が変わっちゃったなぁ⤵︎なんて感じることがあったり、心からウェルカムできない自分が居ることを複雑に思ったり、あるいはあからさまにイヤだー!って思ったりすることだって容易に想像できる。
自分の利益や居心地って、侵されたくないもんね。
…そういうことじゃない?

「ある出来事」をキッカケに "排他感情" というものを自覚した後、さてあなたはどのように思考・行動しますかね?って突きつけられてる。
まずはそれを自覚することがスタート地点だと。
さぁ思考と試行錯誤を始めてみな!と。
とても苦しい闘いだけど。
この劇『ある出来事』が、そのキッカケになっている。

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