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タジマ Dec.2 [プレビュー初日]

シリーズことぜんVol.3『タージマハルの衛兵』

痛烈。
あまりにも私たちの話だったから。
そして、私は「この世界を気に入ってる」方の人間だと自覚したから。
苦しい。ツラい。

「美を殺した」
「あれは月より美しい」「いや、それはない」って …また "月" だ。

あゝそう言えば、開演前は小川絵梨子さんのキュートなご挨拶や、なんと作者のラジヴ・ジョセフさんが客席にいらしてるという特別感もあって、とても素敵な劇場の空気にワクワクしていたんだった。
いよいよだ!プレビュー公演初日を観れる!という興奮があって。
絵梨子さんが「今日来てくださってホントにありがとうございます」と何度も言ってくれて熱くなったりして。

音楽が鳴り、客電が落ち…パッと照明が点いたら目の前(前方上手席でした)に成河さんが立ってたんだけど本当に何の気配も無かったからビックリした。
真っ直ぐ綺麗な立ち姿。
そこから始まった、濃密な100分間。

配役について、事前情報でイメージの逆だなぁと思っていたけれど、結果的に大納得…と言うか、うわぁヤラレタ!という感じ。
「大事なのは考えちゃいけないってことだ」なんて、あの成河さんが言うんだよ!それだけでもう!

断片的な記憶が頭の中で渦巻いている。

幼馴染、兄弟…「バーイー」の空気が感じられるふたりの遣り取りに、序盤けっこう笑ってた。
そしてあの血塗れの光景の中でも同じように時々笑えちゃってたことのシュールさにヒュッとなったり。

フマが口ずさむ歌は子守唄のようで、錯乱したバーブを慰め落ち着かせてあげる力を持っていた。優しく着替えさせてあげて。たとえ解決を提示することでなくても、たとえその場しのぎに過ぎないとしても、"寄り添う" ことは慰めになるんだって、そのことを思わざるを得なかった。

ラスト…バーブのこと、白檀の木のこと、あの日に見たピンク色と紫色と少し緑色が混ざった鳥の大群が一斉に飛び立って空を覆った景色を、いま彼の頭上にある景色と重ね合わせて見たフマの顔は忘れられない。美しい顔だった。
色々を呑み込んで生きる…って、そんなのを美しいなんて言ってちゃダメだって最近思ってたけど、あれだけ過酷な現実が目の前にある時にそれを言えるだろうか。
鳥の大群を見つけた時の目には、心の奥に仕舞ってある筈の美しい湖の光景を思い出してしまうことへの怯えが見られたような気がする。
でも静かに、しっかりと立って、綺麗に立って、空を見上げる、美しい横顔。

美は殺されない。
決して殺されないと思う。
誰も、根絶やしになんてできない。

しかしまぁインパクトある演出・舞台美術。
"マジック監修" が入ったのはそこだったかー。
拭き掃除はかなり大変そうだったし、ビッシャビシャになるし、演技かもしれないけど足を滑らせたりもされてたのでお怪我なきよう気を付けてほしい。

バーブは、ちゃんとしてなくて、夢想家で、無邪気で、でも大勢に流されない自分の考えをちゃんと言える、新しい観点を発見することができる、フマは彼のそういうところを割と素直にすごいなぁと思ったりもしてただろうし、羨ましかったりも。結局彼につられてタージマハルを見ちゃうし。
バーブはフマの気持ちを分かってくれてるのか分かってないのか、よく判らない。
バーブは阿呆なようで哲学的だったりもして、そうだな…「弱い」。
「弱い」方が好きだなんて言ってる。「弱い」って、"迎合できない" という意味で言ってるよね。
この "弱さ" …自分の身近にこういう人がいたら正直面倒くさいよなぁ。思考を勝手に果てしなく進めて、自分自身その思考に苦しめられてしまって…でもその時にはフマが助けてくれるんだよ。フマは「強い」し、バーブのことが好き。考えたら面倒は全てあいつのせいなのに。
フマの慟哭。その後意を決したように荒々しく切断台を運んでくる。

フマはバーブの手を切った後、焼かなかったよね。死なせてあげたのかな。違うかな。

カテコから捌けて行く時、亀田さんが手を伸ばして2人手を繋いで。成河さん…いや、フマ…救いになったんじゃないかな。
って、私が救われてる。
ズシンとくる内容の舞台を観た時にいつも思う、このカテコの有難さ。

そうだ、照明も素敵だったな。特に第1場終わりの夜が明けてくるとこは凄かった。ラストゆっくりと暗転していくのも良かった。
あぁ、松本大介さんだ。

フマとバーブは正反対のふたりのように見えるけど、実はふたりでひとりなのかもしれないって。それも言えると思う。誰しも自分の中に両方を抱えている。

フマにとってあの白檀の木から見た景色は、この上なく美しいものなんだ。タージマハルよりもずっと。人は自分の胸に「美」を持ち続けることができる。でも、だからといって世の中を美しくできるわけではない。
芸術の力、芸術の無力さ。
ラストは、"希望" と言うには苦し過ぎる。

世の中は、何とか回し続けないといけない。
理想や夢想は大切だけれど、そこへ近づくための行動は必要だとは思うけど、上手くできなくて絶えてしまっては元も子もない。
物語には効能がある。演劇はナマ体感させてくれるだけ尚更に。
世の中を回すことを辞めずに、そうでない考えに身を置くことができる。
世の中というのはこういうしくみで動いていますぞ、さてどうする?と問われた時に、私はやっぱり世の中を動かし続けると思う。
思考停止なんかしてない。
思考し、苦しみながら選択し(まぁそれも"選ばされている"のかもしれないけど)、苦しさに潰され膝を折ってしまうようなことなく、強靭な心でそれに堪え、繋いでいく。
寄り添ってくれる物語は、いつも胸の中に置きながら。
ラストのフマはそういう人に見える。

バーブとの会話の中でフマは、4万本の手を切ったことを武勇伝にしてしまえばいいと言っていたけど、そうだね、そういう語り方は簡単にできてしまう。
でもフマはそんなふうには語らないと思うよ。人には何も語らないかもしれない。俺はこう考えて、このような愚かさもあって、でも結果的にはこのように行動したという事実を、だいぶ後日になってから淡々と語るかもしれない。哀しみを滲ませながら語るかもしれない。

成河さんが以前に言及してたからというのもあるけど、映画『新聞記者』のラスト唇の形だけで「ごめん」と言った杉原とフマは重なる。
ダルカラ『福島三部作』の双葉町長のことも思い出す。


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