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「美」について

[ものすごくとっ散らかった思考メモ]

「美」は、在るよ。
たとえ「手」で作られなくても、この世界の中で「美」を感じることはできる。
でもね、「手」で再現してみたいと思っちゃうんだよね…造形したり描いたり書いたり…そんなふうに衝き動かす力のことを「美」と呼ぶのかもしれない。
たとえ上手く再現できないとしても、「美」そのものが無くなる訳ではない。
人は「手」を無くすと、「美」を再現する手段を無くしてしまうと、もう「美」を感じることができなくなってしまうのだろうか?
うん…「手」は「美」を再現するためだけのものではないからね…先ずは生活するため、食べるために必要なものだよね。
先ずは「手」がないと…生活できないと、この世界の中で「美」を見つけ出すことさえ出来なくなってしまうということも言っているのか?
いや、でもたとえ「手」を持たない…再現する術を持たない者でも「美」を感じることはあるでしょう。再現できないことは悲しいけれども、あゝ再現できない残念だと思うこと自体「美」を感じているということでしょう。

自然の中に美を見ることと、
芸術作品の中に美を見ること。
何か "衝き動かす力" のことを美と呼ぶなら、それを自然の中に認識することもあるだろうし芸術作品を見たときに認識することもあるね。
"衝き動かす" というのは、別に自分も芸術作品を作るということに限らず、"自分の思考や行動に何かしらの影響を与える" ことだと言えるだろう。
人の思考や行動に影響を与えるもの=美。
(↑"良い"影響だけではなく"悪い"影響のことだってあるだろうな)
芸術作品というのは何かしら人に影響を与えよう、働き掛けようという…つまり自分が感じている美を人(主に他人だけど、未来の自分向けってこともあるかもね…忘れたくない保存用ってやつ)に伝達しようという動機で作られる。
手を切ることは、美それ自体を殺すことではないけど、美を伝達する・共有する手段を殺すってことなんだな。

みんな手がないからいざという時にタージマハルを隠せなくて困っちゃうというバーブの悪夢。
繋ぐ手がないということ?
いくら各々に美を感じていても、それを分かち合うことがなければ意味を成さないのか?

もう新たに美が生まれず、タージマハルだけが美とされる世界…
みんな手がないから、自分が思う美を伝え合うことができないから、唯一 "美だとされている" ものだけが美であると認識される世界。
それって自分自身で美を感じていることにはならない。怖いね。
誰かに煽られ踊らされる私たち?…

あー話が逸れたけど
自然と芸術作品とに優劣はあるかっていうのを考えたかったんだけど…
別に優劣とかは無いよな。
すべての芸術作品が自然の模倣って訳じゃないし自然からインスピレーションを受けてるとも限らないもんな。
あ、でも、自然には表現しよう伝えようという意図とかないのに美しいって凄いことなのかな。
でもそれはそもそも人間って自然の一部だから。(ある時から意識を持ちそこを分断して考えるようになったけど ←『終わりのない』)
自然の有様を見て美しいと思うのは、もうそういうプログラミングがされてるからなのかねぇ。
また話が逸れたけど。

あーもう思考めっちゃグルングルンだよぉ!
これマジで「大事なのは考えちゃいけないってことだ」なんて成河さんに言わせてることが最高な効果を生んでるよな〜!って唸るしかない。

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