玉井ママの訳ありな終戦

【玉井ママシリーズ】

朝鮮半島から引き揚げに挑む250人の運命

「いいぞ、まさえちゃん、にっぽんいちーっ!」

舞踊の演目を終えると庭に集まった近所のひとたちは縁側まで身を乗り出し、わたしに賛美の拍手を送る。

「お父さん、うまくおどれてた?」

「うん、上手だったぞ」

「水鏡」に続いて、習ったばかりの「お夏清十郎」を演じた。日本舞踊を習っていたわたしは人前で踊りを披露するのが大好きだった。どういう意味の踊りなのかはわからなかったけど、しなを作ったり摺り足とか振り返る所作のお流儀がとても楽しかった。そして何より、優しいお父さんに頭を撫でられるのがとても気持ちよかったから。

昭和20年5月。

満州の安東という地はもともと朝鮮族が多く住む街だった。日本から移住してきた250人ほどがなぜ海を渡ってここに来たのかわからなかったけど、わたしがその地に住むことになったのはお父さんの仕事が理由だった。

お父さんは安東の日本人学校の校長先生だった。

職業柄や校長という立場もあったけど日本人たちの間では人望も厚く、こうして娯楽の少なかった日常に何か楽しみをと、毎週のように庭に人を集めてはお茶会やゲーム大会のようなことを催していた。教育制度が手薄だった先住の朝鮮系中国人の子供たちにも、言葉はそのうち慣れるから学校に来させなさいと学校を解放して、先住のひとたちからも一目置かれていた。当時はどこの家族も大所帯で、わたしの家族も例外ではなかった。お父さん、そして家庭的で優しい母親。身体が弱かったが七人も子供を生んだ。兄弟姉妹は三人の兄と二人の姉、そして弟がひとり。比較的裕福な家庭だったけどけっして贅沢はしなかった。

昭和20年8月。

まわりの大人達が浮かない顔をしていることに勘付いていた。それはいつもよりひどい夏の暑さのせいだけではないと思った。日本が戦争をしてることは分かっていたけど何不自由なく暮らしていた自分とはまったく無関係だと思っていた。でも何かが違う。わたしの勘は正しかった。お兄ちゃんにアメリカが広島と長崎に原爆という爆弾を投下したんだと聞いた。

昭和20年8月15日。

「大変なことになった」

そう言い残して外に飛び出したお父さんを追いかけて砂利道に出ると。目に飛び込んだ光景は異様だった。大人達がみんな道路に正座している。歩いているのは朝鮮族のひとたちだけだ。お母さんが後ろからわたしの肩を抱いて呟いた。

「戦争が終わったのよ」

えっ。わたしはビックリしたけど正直ちょっと嬉しい気持ちになった。戦争で日本人が何人も死んじゃってるってことがイヤだった。だから、嬉しかった。でも大人達は浮かない顔をし、中には泣き崩れている人もいる。戦争に負けたということがわたしには良く分からなかったけど。それがどういう意味なのか。身を以て思い知らされる事になった。

昭和20年9月。

「まさえも片手で持てるようにまとめなさい」

勉強道具とお気に入りの洋服と人形。渡された風呂敷に包む。お着物はお母さんとお姉ちゃんが持ってくれる事になった。荷物を整理しているわたしたちの向こうに頭を下げているお父さんが見えた。

「お母さん、お父さん怒られてるの?」

縁側から庭を見渡せる和室には、顔見知りの朝鮮族のお偉いさんとアメリカ人みたいな大男がいた。朝鮮族のおじさんは優しいの知ってる。でもあの大きい外人さんはお父さんを虐めているように感じて、わたしはとても不安になった。大丈夫よ仲良しだから、とお母さんは言うけどアメリカに戦争で負けた。そう聞いたから。そして、その大男が「ロシア人」という外人だと後で知らされた。

二人が帰ってしばらくすると。お父さんの友達やお兄ちゃんたちが何台もの大八車を引きずって玄関先に集まってきた。手渡しリレーで大きな布団袋や細々した風呂敷包みが大八車に積み重ねられる。

「引っ越しをする」

晩ご飯の時にお父さんがそう言って苦虫を噛み潰したような顔になったけど、それがどういうことを意味するのか。なぜ引っ越すのか。どこに行くのか。わたしには見当もつかなかった。

9月に入るとロシアの憲兵が街のいたるところで見かけるようになり朝鮮族の治安警察が組織されて、今までとは打って変わって高圧的に日本人をコントロールするようになっていた。横柄に振る舞っていた日本人は目の敵にされ、人によっては取り調べと称して拷問をうけていたようだった。知り合いのおじさんが足の骨が見えるほどの傷を負って大八車に乗せられているのを見て、ただごとではないと思った。

それは、引っ越しをして理解ができた。自分たちが以前とは違う劣勢な立場に置かれていることをあらためて知った。大きな納屋のある農家の家。知らないひとがたくさんいる。わたしたちは他の十家族くらいと共同生活をすることになった。

お父さんとお兄ちゃん達、その他の家族の男たちは子供を除いて毎朝どこかに連れて行かれていった。男達は朝鮮族の必要な労働力として駆り出されて、農作業や必要な肉体労働を課せられていたようだった。ロシア兵や朝鮮族の治安警察も戦後の混乱時、どのように日本人を扱って良いのか分からなかったようだ。ここ安東では日本人がそれまでの所有していた不動産はすべて没収されて、約250人の日本人は四カ所の農家に軟禁されることになった。

「よしひで兄さんは?」

一番上の長男がいない。いつか必ず帰ってくるからとお母さんはそう言ったけど、どこかで朝鮮族かロシア人に虐められてると思って心がチクチクと痛んだ。わたしとはひと回り以上歳が離れていた一番上の兄は、すでに医者として社会人となっていた。そのためロシア兵に真っ先に捕われてしまい。シベリアという所に抑留されたのだった。

わたしは戦争が終わったと聞いて喜んだけど、手放したくない人形や勉強道具、下敷きまで売って食べ物を買ったこと。家を追い出されて沢山の人と共同生活を強いられたこと。その年の8月から数ヶ月のことをそのくらいしか思い出せない。

夢なんだ。これは悪い夢なんだ。毎日そう思っていた。

昭和21年7月。

ある夜、知ってる顔の朝鮮族のおじさんが家に来た。お父さんが「偉い人なんだぞ」って言ってたおじさんだ。後ろに怖い顔したロシア人も一緒だった。お父さんと朝鮮族のおじさんは握手をすると、横にいたロシア人は何か言ってお父さんの肩をぽんと叩いて帰っていった。

戦争が終わり漁父の利を得ようとしたロシア。二分した朝鮮半島と民族。安東に駐留していたロシア兵や地元の朝鮮族治安警察も、先の見えない軟禁状態にある日本人の扱いに苦慮していたようだ。監視下に置き続ける以上手間やコストもかかる。その雰囲気を察知したまさえのお父さんはある考えに至って、まず朝鮮族の重鎮に話を持ちかけたのだった。

安東に住む250人の日本への引き揚げについてだ。

お父さんは満州鉄道が安東から朝鮮半島38度線あたりまで貨車が運行してる事に目をつけた。そこに安東に残された日本人250人が乗り込み、南朝鮮を目指す。アメリカ軍に拾われれば何とか日本に帰れるかもしれない。そう考えたのだ。

それを実行させてくれるためにはあの人に交渉するしか無い。それがわたしも良く知るあの朝鮮族の偉いおじさんだ。お父さんは日本の占領下に安東の朝鮮族の子供たちにもその教育の機会を与え尽力し多大な寄与をした。そのことを重鎮のおじさんは非常に恩義に感じていたようだ。

その交渉がまとまったのだ。ひとり1万円、合計で約250万という莫大な金額だがこれで貨車を一両確保できた。もちろん街の朝鮮族やロシア兵はその事を知らなかったことにするという条件。そして当然ロシア兵への賄賂も含んでいた。とは言えその作戦で日本への帰国が担保された訳ではない。貨車で南を目指しても、その後どんな危険が待ち受けているや否や想像もできない。それでも安東で先の見えない無情な日々を過ごすよりはチャンスに懸けたい。お父さんはそれに懸けた。

敗戦国となり海外に取り残されたニッポン人たち。幼いわたしの目にも皆が心身ともに疲れ果てているようにみえた。それでも強い希望、それを誰も口にはしないけど秘めていた想い。

ニッポンに帰りたい。

「お母さんもお姉ちゃんたちも具合悪いけど頑張るんだ・まさえも歯を食いしばって頑張れるな」

お兄ちゃんたちが返事をするようわたしに向かって目配せをした。

「お父さん、まさえもがんばる」

何をどう頑張るのかはっきりと分からなかったが。「日本に帰る」という言葉や、お兄ちゃん達が嬉しそうな顔をしてるのを見て、わたしは思わずそう言った。

昭和21年7月末。

ある日の早朝。最後尾の一両に日本人250人を乗せた貨物列車は終着駅も分からない南の方角に向けて出発した。

貨車の中はほとんど明かりも入らず、人と人が重なり合うようにしてただ揺られ続けた。わたしは、ずーっとお父さんの手を握っていた。息を押し殺したように誰一人言葉を発しない異様な世界。線路のつなぎ目のガタン、ゴトンという音だけが機械的に刻み続ける。

いったい何時間走ったのだろう。突然、貨車がキィーっという音を立ててゆっくり停まった。外から貨車の鉄扉が開けられると。大きな外人の兵隊さんが何人もいて大声で叫んでいる。わたしはすぐにそれがロシア兵だとわかった。家に来た怖い顔した外人と同じだ。

ここはどこ?次々に貨車から降ろされた日本人たちは。駅のホーム横に設営された大きなアーチ型のテントに分散して移動するよう促された。

「大丈夫だから、お兄ちゃんたちについて行きなさい」

わたしは口を真一文字に閉じて、歯を食いしばった。お父さんは具合の悪いお母さんとお姉さんを指差してロシア兵と何か話をしてる。お父さんが交渉の末借り切った貨車一両を連ねる列車は。38度線まであと8キロほどに地点で停められたと後にわかった。お兄ちゃんの話によると、安東のロシア兵が約束を破って密告したとのことだった。逃避した日本人たちを黙認していたという事がバレるとまずいと、手元を離れた安東の日本人たちのことを別の管轄部隊のロシア兵に連絡していたらしい。

一行の計画は、あっという間に頓挫してしまった。

薄暗いテントに集められた250人は年齢・性別で班を分けられ。お母さんとお姉ちゃんや他の家族で具合の悪い人たちは別のテントに連れて行かれた。わたしにはこのテントにだ捕された期間や何をして過ごしていたかの記憶がまったくない。まさに絶望というのはこういうことかもしれないと感じていた。

数日後。「まさえはよしのり兄さんと離れないで歩きなさい」と真夜中に起こされてお父さんにそう言われると、わたしはすぐ上のお兄ちゃんの後ろにピッタリ付いてテントを出た。他のお兄ちゃん達は?お母さんやお姉ちゃんはどこ?なぜ、ここを離れるの?

状況はこうだった。日本人をだ捕軟禁したロシア兵も戦争が終わってしまっている状況で、存在価値のないわたしたちを長い間そのキャンプに置いておく意味が無いと考えていた。それどころか迷惑なお荷物だ。といって本国の命令に背いて解放する訳にもいかない。食料だって与えない訳にもいかないが、備蓄してるこーりゃん(モロコシ)だって限りがある。さてどうしたものかと考えあぐねていたようだ。

その状況を察知して知恵を出した日本人がいた。それはわたしのお父さんではなかった。

四人の慰安婦だ。

安東に住んでいた四人のお姉さんたちにはよく遊んでもらっていたが。慰安婦と大人たちが呼んでいる意味はわたしには分からなかった。

「私たちが残るから、他のみんなを見逃してあげてください」

朝鮮族の治安警察を介してお父さんが交渉して、ロシア兵の上官は条件を受けた。四人を残して皆が解放される事になったのだ。

「どうせ帰るところも無いし」

お父さんも安東の日本人のみんなも、涙を流して代わる代わるお姉さんたちを抱きしめた。わたは四人のお姉ちゃんたちが身代わりに人質になるんだと思った。遠ざかる私たちに力一杯手を振るお姉さんたち。わたしは声を上げて泣いた。あんなに悲しかったことはなかったから。

さて、解放される事になったわたしたちは、五人づつくらいに分かれて数十秒ごとに距離を置いて、遠くに見える背中を頼りに暗闇の中を歩き始めた。先頭の集団には、お父さんが最後の手持ちだった貴金属で交渉したという朝鮮治安警察の「道先案内人」が付いた。

38度線の川まではあと8キロ。

まさえは暗闇に目が慣れてくると、歩いている左側がずーっと山だということがわかった。何時間歩いたのか、眠気と疲れで足が前に出なくなりかけていた時うっすらと先に明かりが瞬いているのが見えた。と同時に、大声で怒鳴る声がした。

「冗談じゃない」

前の班に合流すると、見たこともない真っ赤な顔をしたお父さんが怒鳴っていた。

「また戻ってきてるじゃないか」

見たことのある風景。騙されたのだ。わたしたちは出発したロシア兵のテント村に戻ってきていた。暗い夜道を歩くも山裾を一周しただけだった。お金目当てだった道先案内人の朝鮮治安警察は蜘蛛の子を散らすように何処かへ消えてしまっていた。

わたしの記憶はまたここからがあやふやだ。あまりにもショッキングな出来事は。人間の記憶回路を遮断する。

昭和21年8月某日。

ロシア兵は無用なものを放り捨てるかの用にわたしたちに「もう早く何処かに立ち去れ」というあからさまに厄介者扱いの態度をとっていた。そして、お父さんは皆と話し合いの末に残された地図だけを頼りに徒歩で南を目指す事となった。テント村のロシア兵はまったく意に介さない様子だった。

わたしは、頭を坊主刈りにしたこと。

ロシア兵に捕まったら男の子だと言えと教えられたこと。

昼間は山の茂みに身を潜めて、夜中になるとゆっくり歩いたこと。

来る日も来る日も、とにかく歩いていたこと。

いつもいつもお腹が空いていたこと。

お母さんとお姉ちゃんが相当具合が悪かったこと。

そのくらいの事しか覚えていない。

昭和21年8月末。

夜中に歩き続け、日中は鬱蒼とした茂みで寝る生活が数日経ったころだろうか。川のせせらぎが遠くの方から聞こえてくる。地図を広げたお父さんが興奮している。

「ここだ。この川の向こうは南朝鮮だ」

山裾に穏やかな流れの河川が見下ろせる。「水深も深くなく、流れも穏やかだ」様子を偵察してきたというどこかのおじさんがそう言った。みんな大声で叫んで喜びたかったんだと思うけど、静かにお互いの肩を掴んで揺らし合っている。みんな嬉しいんだ。声を出せないからそうやって喜びをわかちあっているんだと思った。

順番に川に入り、次々と向こう岸に渡る。お父さんもお兄ちゃんも。お姉ちゃんも頑張った。すると、お父さんが叫んだ。

「お母さんがいないぞ」

「おかあさんと一緒だったのは誰だ!」

南側の川っ縁を右へ左へとウロウロしながら落ち着かない様子で。次々と渡ってくる皆を凝視しているお父さん。「ちょっと戻ってみるからな」そう言い残すと向こう岸へ引き返すために川に入っていった。

その時だ。

パン。パン、パン。

銃声が谺した。思わず頭をすくめる。声の音は向こう岸から聞こえてくる。ほとんどの人が南側に渡りきっていた時のことだった。わたしはお兄ちゃんにしがみついた。怖い。とっても怖かった。そして涙が止まらなかった。だって、お父さんが。お母さんが。撃たれちゃってる。頭がおかしくなりそうだった。

どのくらい時間が経ったのか。泣きつかれたころには東の空が明るくなり出していた。「さぁ、がんばれ。また歩くぞ」というお父さんの声に起こされた。「お父さん!」お母さんもお姉ちゃんと一緒にこっちを見てる。お父さんも、お母さんも撃たれてなかった。生きている。

「まさえ、がんばったわね」

そう言って労うお母さんに抱きしめられていた。どうやってあの状況を切り抜けたのか。そこの記憶もないので今ではまったくわからないが、その時夢なら覚めないでと思ったことは覚えている。

その後歩き始めて数時間後だったか、ジープに乗ったアメリカ兵が私たち一行を確認。近くに設営されていた立派なアメリカ軍のキャンプに誘導された。裸にされDDTを振りかけられ近くの池で身体を洗い流すよう指示され、深緑色の屋根のハットに収容された。木の床の倉庫みたいなところだがちゃんと一人一枚ずつマットが支給されたのでわたしはすぐ上のお兄ちゃんと飛び跳ねてよろこんだ。具合の悪かったお母さんとお姉ちゃんは別の棟に連れて行かれたが、ベッドのあるハットで寝泊まりできるようだしお医者さんにも診てもらえると、お父さんは喜んでいた。

その数日後。

「まさえ、白米が食べれるぞ」とお父さんが耳打ちした。わたしはこーりゃんに飽き飽きしていたので「えー、ほんとっ?」と喜んだ。事の発端はこうだ。そのキャンプ内には他の地域から逃げて来た日本人もいて週に一度合同で「余興演芸大会」を開催すると言うレクリエーションの機会が与えられていた。そこでわたしは日本舞踊を披露したのだ。もちろん「水鏡」と「お夏清十郎」だ。アメリカ兵たちも、不思議な動きの日本文化に触れて大喜び。わたしたち家族にはその日、キッチンで白米のおにぎりを作って持ち帰ることがご褒美として与えられたのだった。でも、嬉しいはずなのになんだかとても悲しい気持ちになったことを覚えている。そしてわたしはそのとき以来日本舞踊を一度も踊っていない。

昭和21年11月。

「船に乗れるぞ、順番が来たんだ」

お父さんが呼び出されたオフィスからハットに戻ってそう言った。お兄ちゃんたちも他のおじさんたちも、みんなで万歳三唱した。二ヶ月ほどのアメリカ軍キャンプでの収容生活の後、仁川という所の港に移動してアメリカ軍の軍艦で北九州まで戻れることになった。

船底のコンクリートは冷たくて居心地が悪かったけど、みんな「これで日本に帰れる」という想いで笑顔だった。お母さんとお姉ちゃんは二段ベッドで寝て帰れるから安心だと、お父さんのホッとした表情が忘れられない。

まる一日くらいの時間をかけて北九州の門司港に到着した。わたしたちは立ちはだかる敗戦後の困難をみごとに乗り切って幸運にも帰国を果たした。

門司から郷里の熊本まで半日かけた列車の移動。

「すみませんが、寝かせる幅をお借りさせてください」

お父さんは、お母さんとお姉ちゃんが寝転がれるように、一緒に引き揚げてきた安東の仲間と協力してちょっと広めの空間を確保した。お姉ちゃんは栄養失調が祟って腹水がすぐ溜まってしまいいつも苦しそうにしていた。

「わたしは大丈夫だから、お姉ちゃんを寝かせてあげてね」

お母さんだって苦しいのに。わたしはその時ほど母親の強さと優しさを思い知らされた事は無かった。あと数時間で熊本に帰れる。そう思ったのに、悲しみは突然やってきた。

「お姉ちゃんが死んじゃった」

そんなのウソだ。ウソ、うそ。具合の悪かった一番上のお姉ちゃんは列車の中で力尽きて息を引き取った。「ニッポンに帰れて良かったな」と、お父さんが喉の奥から絞り出すような声でお姉ちゃんに話しかけた。わたしはお母さんがぐっと堪えて泣かなかったのを知っていた。だから、自分も我慢した。精いっぱい我慢した。でも、どうしても我慢できなくてお兄ちゃんの膝で泣いた。思いっきり泣いた。

どこかの駅に停車した際にお姉ちゃんをホームに降ろした。車掌さんの計らいで、そこで簡単なお葬式みたいな事をしたのを覚えている。でも、お姉ちゃんの亡骸がその後どうしてどうなったのかは記憶に無い。

列車はついに熊本に到着した。

まさえは、なぜかあまり嬉しくなかった。お父さんもお兄ちゃんたちも、みんな抜け殻のようだった。身を寄せた親戚の家ではとても良くしてもらったけど。あまりにも壮絶だった引き揚げ体験。あのことに比べるとすべてが天国。でも、わたしは十分過ぎて申し訳ないと思った。

戦争はわたしにとっては何だったのか。楽しかった安東の小学校生活のこと。苦しかった数ヶ月の引き揚げ体験のこと。ロシア兵のキャンプに置き去りにして来た慰安婦のお姉さんたちのこと。そして、死んじゃったお姉ちゃんのこと。わたしは、毎日その事ばかり思い起こしていた。

「まさえ、きみはお兄ちゃんたちと東京に行きなさい」

昭和22年1月。

東京・世田谷の若林に住むお父さんの弟の家へ兄二人と移ることになった。まさえ、13才。一年遅れで、太子堂小学校に通うことになる。

かくしてわたしの戦後が始まるのです。

to be continued


no more war

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