貴女の未来に僕はいない

「いい加減にしろ!!次同じ事をしたらお前との結婚生活を本気で考え直すからな!!」 

 結婚して約一年、遂に初めて主人に頬を叩かれてしまった。 勢い余って叩かれたせいか頬がジンジンと痛む。腫れはしないだろうと思いながらもアイスノンを冷凍庫の底から出し、ハンカチに包み赤みを帯びた頬に当てて冷やす。 午前7時10分、私の頬を叩いて直ぐに、早起きして作ったお弁当も持たずに主人は会社に出勤してしまった。 

 引っ越してきてまもないカランとしたリビングにへたり込み周囲を見回し、アイスノンを頬に当てたまま私はフローリングに横になった。  

 あーあ、結婚生活を考え直すかぁ。できればそれはしたくない。でも今の現状のままでは主人は納得しない。怒鳴りながら家を出る時に伝えた言葉は主人からの最終通告であり優しさなのかもしれない。

  今日は頬を叩かれてしまったが、主人は元々とても優しい人で、誠実で何より私の事を心から大切にしてくれている。 頬の色が変わる程強く叩かれてしまったのは主人の精神が限りなく限界に近づいているからだ。仕事のストレスだけではなく、日々の私の行いから来たものだ。 

 そうだ、初めてなのは叩かれた事だけじゃない。最初は"さん"呼びだったけど、名前ではなく"お前"と呼ばれた事もだ。 暖かい眼差しと共に私の名前を呼ぶ主人はどんな気持ちでお前と発してしまったんだろう。

 物理的な痛みは叩かれた頬だけど、お前という乱暴な呼び方の方が精神的にじわじわと強く傷む。 全部全部自分が悪い。あんなに優しい人に妻を叩かせお前と呼ばせる私自身が何もかもいけない。あの人は何も悪くない。 涙が止めどなく溢れてくる。ごめんなさいごめんなさい。もうしません。あなたの理想の妻になれるように頑張るから、叩かれるのはまだいいから、結婚生活を考え直すなんて、お前なんて呼び方はもうしないで。 

 横になったフローリングがひんやりと心地良い。こんなダメな自分、価値がない自分はこのまま床と一体化して、そのまま主人の気分を害する事のない無機質な存在となってしまえばいい。ここが何処までもずぶずぶと先がない底無し沼であればいい。息ができなくなっても今より遥かに居心地がいいはずだ。 

 もちろん私も主人が大切である。かけがえのない人だ。悲しませたり怒らせる事なんてしたくない。 でもこればかりはどうにもならない。自分でもどうやったら治るのかが分からない。 

 早起きしてまだ眠気があるのと初めて主人にお前と呼ばれて頬を叩かれた後の痛みと行き場の無い自己嫌悪を脳裏に浮かべ、カランとしたリビングに放り投げられた、ちょっとしたアートに見える私の手首から出た血に染まるカッターナイフを虚ろな目で見つめながら、この悪癖はどうしたら治るだろうと考えながら再度眠りに就いた。 



  主人とはお見合い結婚だった。主人は父の部下にあたる人だ。 父が毎日の様に酔っ払って帰って来て風呂から上がり寝室で寝ようとする私に絡んで来た。

 「よ〜脛齧りの世間知らずの我が娘よ、恋人も作らず今日も陰鬱としながらご就寝かい?」 「お父さんお酒臭い。せめて歯を磨いてから顔を近づけてくれない?」 

「まーまーまー。今日はいつも以上に機嫌がいいんだよ。お前に悪くない話も持って帰ってきた」 

「何?」 

「お前ももう27だろ、娘はいつまでも手放したくないが良い縁談がある」 

 酒を飲んでないのに父はまだ居酒屋にいる気分なのかソファーに座りプハーっと酒臭い息をリビングに充満させ鼻歌を歌い出した。 良い縁談…それは所謂お見合いというやつだろうか。 

 「相手はどんな人なの?」 

「お前より手塩にかけてる俺の部下だ。真面目で誠実で仕事もできて礼儀正しい。外見は平凡だが清潔感もある」 

「へぇ…その人は私と会う事をどう思ってるの?」 

「乗り気だよ。うちの娘は社会経験は少ないが家事も一通りできるし何より器量良しだって言ってある」 

 上司の娘とのお見合いだから、断ったらその人は大義名分が悪くなると思ったんだろうなと頭に浮かぶ。とりあえず会ってみてダメだなと思ったら、程のいい断り文句を使って父の顔色を伺おうってやつか。そういう意味では上司のご機嫌を取るのも出世に繋がる道だし、仕事ができる人なのかもしれない。

 「ほら!これこいつの写真!」  

 お見合いという話なのに父は最新のスマートフォンの大きい液晶に映る相手を見せて来た。 時代の流れと文明の進化か、はたまた父が節操なしか。 スマートフォンに映し出された男性は髪の毛をキチッとセットしていて爽やかな微笑みを浮かべている。  

「優しそうな人だね」 

「そう!人当たりもいいし優しいんだよ。こいつ顔は人並みだけど、お前は体は傷物だけど顔は人形みたいに綺麗だしお似合いなんじゃね?って思ってさ」

  お見合いをするかもしれない人と実の娘に対して酔っ払っているからとはいえ、なんという悪態。 父の失礼な言葉に憤りを覚えたが私はこの家が窮屈だった。 これ以上酔っ払いに絡まれるのも嫌だし布団に入りたかったので、分かった会ってみると言い、寝る前の挨拶をせず寝室に向かった。 

  お見合いは翌週の土曜日に行われた。見栄っ張りの母が成人式の時の晴れ着もまだ充分着れるのにわざわざデパートに行き、新品の晴れ着を買ってきた。

  会うだけ会ってみろと軽い乗りだったのに、見合い当日朝早くに起き、美容院で着付けとヘアセットとメイクをしてもらうのは何故だろうと、長い髪を丁寧にくるくるとお団子頭にセットされている様子を鏡越しに黙って見ていた。  

 身支度が終わり、父が予約した和食の料亭に着くと、父が私よりも可愛がっている部下の人はとっくに到着していた。 

 「お待たせしてすいません!」 お見合いをセッティングした父よりも先に頭を下げる。 その人は「いえ、自分が予定の時間より早く到着してしまったので。頭を上げてください」と柔らかく声を掛けてくれた。 優しい人柄に安堵を覚え、「ありがとうございます」と顔を上げると、その人は私の顔を直視した瞬間、お酒でも飲んでいたのだろうかという程顔が真っ赤になり、その後上司の父よりも私をチラチラと気にしながらお見合いがスタートした。 

「井沢専務のお嬢さんがこんなに綺麗で可愛らしい方だとは思いもしませんでした」 

「あーそうだったな。なかなかの気量良しとは言ったが娘の写真は見せてなかったもんな」 

「お父さん…お見合いをするのに私には相手の写真を見せて、その相手には僅かな情報だけ与えるっていうのはフェアじゃないよ」 

「良いんです良いんです!僕、こんなに可憐な方とお見合いなんて知っていたら前日一睡もできませんでした!」

 「お、高橋、うちの娘に一目惚れか?じゃあ、定番の後は若いお二人で、ってやつでしばらく一服してくるわ」 

「どうぞご自由に」  

 父が私と見合い相手を残し、2人っきりになると彼はしどろもどろになりながらも、顔が小さいですね、お肌が真っ白で綺麗ですね、芸能人かと思いました、こんなに素敵なお嬢さん僕には勿体ないなと沢山の称賛の言葉をくれた。

  一目惚れしたというのはあながち間違いではなさそうだ。称賛の言葉がなくても彼の顔には"貴女が好きです"と張り紙が貼ってあるかの様に、私に好意の眼差しを送ってくる。 人からの好意に鈍い私でも分かる程だ。 

 ろくに自分の話をしていないが、確かに父の言う通り、彼の人柄が話をしているうちに伝わって来る。少なくとも悪い人ではなさそうだ。 父に冷やかされるのが嫌なので、父が席に戻って来る前に、私は彼と連絡先を交換して来週末映画を観に行く約束を交わした。 

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