陽炎エンドロール

 景色がぐらりと揺れて、地面が迫ってくる。惰性で動かしていた体が瞬時に再起動する。どうにか踏みとどまって転ばずにはすんだけど、振動で目眩がした。刹那の暗転から光を取り戻した僕の視界に、額から汗が滴って地面に吸い込まれるのが映った。

 地面を見つめること数秒、ゆっくりと体を起こす。背中、というよりうなじのあたりに覆いかぶさっていた重さが次第に後ろへずれていき、元のように僕の肩へとしがみつく姿勢になる。うん、やっぱりこれは無理だ。僕は肩からリュックサックを外し、近くの木に寄りかかった。

 荷物を漁り、水筒とポーチを取り出した。取り出した時、ちゃぽんという音がかすかに聞こえた。まだ半分あることを訴えている音。それか、もう半分しかないことをおずおずと申し出ている音。汗を拭ってすっかりぬるくなったお茶を口に含むと、少しだけ楽になった気がした。

 ポーチを開けて、中の虫除けスプレーを掴む。ひんやりとした金属の冷たさ。このカランカランという音は、何も伝えてはくれない。ずいぶん久しぶりに聞く、人工的な音。僕が地面を踏み締める弱々しい音でも、ずっとずっと聞こえる虫の羽音でもない。

 身体中に噴霧できる量はもはや残っていない。このスプレーでさえ、入手には苦労した。今年はなぜか虫がいつまでも元気で、虫除けグッズはどれもひどい品薄だった。

 そう、今年の気候はどこかおかしかった。どこに行っても、いつになっても暑さが消えない。このあたりにはちょうど1ヶ月くらい前にも来たけど、その時とほとんど変わらない。

 夏休み明けのテストでちょっとぐったりして帰宅した金曜日、母さんの明日と明後日って空いてる?という質問に、うっかり空いてるけどどうかしたのと返したのがすべての間違いだった。僕も迂闊だったけど、母さんも母さんだと思う。

 決まりね、と頷いた母さんはすぐに1本の電話をかけた。短い電話の後、母さんは僕に告げた。それじゃ、週末はおじいちゃんの家に行ってきてね。

 おじいちゃんは、倉庫の整理に人手を必要としていた。この機会に昔の話をしたかったのもあってか、僕に白羽の矢が立ったのだ。道具や日記、アルバムが出てくるたびに片付けは中断され、おじいちゃんの話が始まるのだった。倉庫があまり大きくなかったから日曜日の朝には終わったけど、おじいちゃんは驚くほど多くの思い出を倉庫にしまっていた。

 母さんはちょっとした避暑旅行ね、だなんて言ってたけど、ちっともそんなことはなかった。都会と変わらず、いやむしろこっちの方が強烈に夏を感じる。日本人の原風景というやつかもしれない。

 僕らのDNAに深く刻み込まれた、抗いようのない本能。それが刺激されるのか、ここに来てからはより一層夏を感じている。暑いのはたしかだけど、きっとそれだけじゃない。暴力的なまでに濃い夏という概念そのものが、ありとあらゆる場所で爆発していた。くらくらするのは、暑さのせいだけではないと思う。

 リュックサックに詰められた野菜が、行きと同じはずの道をさらに険しく厳しいものにしている。家に送ってくれればいいのにとも思うけど、「家に来た孫へ田舎土産を持たせる」ということが楽しいみたいだったから、おとなしく荷物を積めるのを手伝った。

 まったく、山道を歩くってことを覚えておくんだった。リュックサック自体がそこまで重くないからよかったものの、荷物が僕を疲れさせ、疲れが暑さを取り込み、暑さがさらに荷物を重く感じさせる悪循環だ。ファスナーにぶら下げたとんぼ玉(ペットボトルのお茶のおまけだった)など、何の役にも立ちはしない。ガラスの中の水色の線だって、人工的で何も感じない。

 もう役には立たないスプレーと水筒を荷物に放り込み、リュックサックを背負う。回復したはずの脚はもう負荷に呻き声を上げているけど、あともう少しでこの旅も終わる。それまでの辛抱だ。

 そう思っていたけど、旅の終わりは案外早く訪れた。5分くらい歩いたら、木立の先に光が見えたのだ。そこで森は終わっていて、まだちょっと青い田んぼが一面に広がっていた。その世界をレールが一閃して、古ぼけた小さな駅舎が陽に灼かれている。

 たちまち疲れが吹き飛んだかのように、僕は駅舎に駆け込んだ。どこにこんな元気が残っていたのだろう。行きと同じく駅員は誰もおらず、ここも静寂が支配していた。こんなところでも元気に働く自動改札機を通り抜け、構内に入る。肌や肺を焦がす暑い空気は同じでも、日差しを避けられるだけでずいぶん違う。

 券売機でダイヤを確認しようとしたが、くすんだアクリルのケースには土埃があるだけで、時刻表は1枚たりとも残っていなかった。どうせこの小さな駅で電車を見逃すなんてことはないはずだ。僕はそう割り切って、プラットホームへと足を向ける。

 構内には駅員どころか客も含めて誰の姿もなく、まるで僕以外の人間が世界からいなくなったみたいだった。どこまでもひとりぼっちなこの世界。いずれ僕までもが消えてなくなるような気がして、乾いたアスファルトを蹴りつけるようにして歩いた。

 ゆっくり歩いたつもりでも、そもそもこの駅が小さいことはどうしようない。たちまちのうちにホームの端っこへ辿り着く。逃げ水を湛えた鋼鉄の道は、どこまでも伸びているように見えた。

 反対側の端まで辿り着くも、まだ電車は来ない。これがここの普通だということはわかっているけど、ひっきりなしに人の群れを輸送し続けなくてはならない都会に慣れた身にはちょっとつらい。せめて都会から離れた時くらい、時間を忘れられたならよかったのに。

 さっきと同じような、夏の風景。スマートフォンを取り出して、カメラを起動する。これなら、どこを撮ってもいい感じになりそうだ。「夏 田舎」で画像検索して山ほど出てくるような、それか壁紙フォルダに最初から入っているみたいな写真。

 写真を何枚か撮って、カメラを下ろした。駅を見つけた時のアドレナリンも尽きたようで、また肩に負荷を感じ始めた。プラットホームの端には屋根もない。誰もいない駅員室のあたりまで戻ろう。たしかベンチがあったはず。

 改札の近くは薄暗くて、外の陽光が余計に眩しい。目蓋の裏まで焼きついた七色の煌めきによろめきながらも、僕は荷物を置いてベンチに腰を下ろした。天井を仰ぐと、蜘蛛の巣でがんじがらめのファンがひっそりと吊られていた。

 もういつから動いていないのだろう。この古い駅で、きっとどこよりも後回しにされている内に忘れ去られてしまったのだろうか。たまに来る駅員や利用者がこうやって目をやっても、数秒後には忘れられているだけなのかもしれない。

 突然、ファンのあたりで何かが動いた。人の出入りもなく淀んだ空気の中を舞い降りてくる。白い光を放ち、不安定な軌道で近づいてきたそれが、だんだん大きくなる。そして、その光は僕の眼の中に飛び込んだ。

 ただの埃じゃないか。眼をこすり、僕は呻いた。涙まで出てきた。いや、これは当たり前だけど。誰にとも知れない、言葉にもならない悪態をついて乱暴に涙を拭くと、回復した視界に奇妙なものが映った。

 色褪せた路線図が貼ってある掲示板の横に、扉があった。記憶の限り、僕はこの扉の中に入ったことはないし、誰かが出入りするのを見かけたこともない。というか、この扉を初めて認識したような気さえする。こんなところに扉なんてあっただろうか?

 まるで僕がプラットホームを歩き回っている間に造られたみたいだけど、真新しさは感じられない。周りの壁と同じか、もしかするとそれ以上に古ぼけて見える。

 それは、この場所にどこまでも溶け込んでいるようだった。ちょっとでも目を離したらどこかへ消えてしまいそうな危うさと、太古から存在し続けるものだけが備える存在感とを同時に帯びているように思えた。たった今僕が見つけられたのだって、何か途方もない偶然がそうさせているような気がした。

 不思議な出会い。知らない扉。そして、今は夏の続き。うたかたの夢。何だって起こりそうな、素敵な冒険の予感。例えるなら、そう。ひと夏のボーイ・ミーツ・ガール。

 扉に近づく。開かないはずはない。だってこれは僕のための扉だ。取っ手を握りしめる。少しざらつく、冷たい感触。力を込めると、本当に回り出した。まるで、運命の歯車みたいに。

 扉を開ける。奇妙な扉に隠されていた、秘密の部屋。涼やかな空気が頬を撫でて、背後に消えていく。そして聞こえるのは、紛れもなく人の話し声。途端に心音がうるさいくらいに高まる。幻視するのは、真っ白なワンピースの少女。

 話し声が止んで、声の主が僕を見た。体の輪郭に沿って流れる長い髪。夏の夜空のような、深い紺色の浴衣。

 「入るなら早くしてくれ。暑くなっちまうだろうが」

 「あっ、すみません」

 そっと扉を閉めた。その間、約3秒。扉を閉じると、途端に元の暑い空気が僕を包んだ。何がボーイ・ミーツ・ガールだ。ただの老人じゃないか。内心で悪態をついて荷物のところに戻ると、背後でドアが開いてさっきの老人がぬっと顔を覗かせた。

 「外にいて暑くないのか?遠慮なんぞしてないで入れ」と、振り返った僕を見ている。僕を気遣ってくれたのだろうが、この絵面はどう見ても『シャイニング』だ。せっかく誘ってもらったのを断るのも気が引けて、僕はおとなしく荷物を持ち、老人に続いてそのまま部屋へ入ることにした。どうせ盗まれはしないだろうが、少しでも涼しいところに置いておきたかった。

 部屋の中は、駅舎の他の部分に負けず劣らずの古ぼけ具合だった。長方形の部屋の両端にドアを挟んでベンチが置かれている。正面には、色褪せたポスターの貼られた掲示板が壁に掛けられ、さらにその上には天井から扇風機がぶら下がっていた。もしかすると、この駅で唯一の扇風機かもしれない。

 そして、部屋にいたのは浴衣の老人だけではなかった。もうひとり、ワイシャツ姿の老紳士がいた。横にスーツの上着らしきものが畳まれているが、ずいぶん古風なデザインだ。そういえば、おじいちゃんの蔵に紺色の浴衣も古いスーツも似たようなものがあった気がする。このあたりだと、昔の服を着るのも当たり前のことなのかもしれない。

 とはいえ、今のものの方がずっと便利なはずだ。そのスーツを着た父さんがいつも暑い暑いとこぼしているのに、よくここまでこの暑さの中を来られたものだと思う。

 そんなことをぼんやり考えていると、浴衣の老人が荷物(これもまたずいぶん古風な風呂敷包みだ)をどけてスーツの老人の横に座った。そして、僕の方を見て「まぁ座れ」と自分たちの前を指し示した。僕としてはこの涼しさだけあれば十分なので、ベンチの隅っこでひっそり過ごすつもりだったが、こう直接言われては断れない。自分の流されやすさには呆れるばかりだ。

 どこか不機嫌そうな浴衣の老人に比べて、スーツの老人は柔和な印象だ。僕にもにこやかに会釈してくれて、慌てて返した。ふたりの老人に見つめられる形で僕も腰を下ろしたけど、ものすごく居心地が悪い。

 「私たちはこの辺りに住んでいる者でね。見かけない顔だけど、君はどこから来たのかな」

 「東京から来ました。近くにおじいちゃんが住んでるんです」

 「そうか」

 シャツの老人は水筒からお茶をひとくち。会話が途絶えて、また僕は気まずくなる。だいたい、年長者ふたりの前にいきなり放り出された僕みたいな子供がこうなるとは思わなかったのか?自分の膝を凝視して早くもここを出ていく適当な理由を探し始めた僕に、今度は浴衣が話しかけてきた。

 「なぁ坊主、今は夏だと思うか?」

 話題に困ったとして、目の前にいる相手と何を話せばいいかわからなくなったとして、天気や気温のことを話すのはまぁ理解できる。浴衣は気温のことを言いたかったのかもしれないが、だとしてもこの言い方に行きつくのはまったく理解できない。呆れたものだと思って顔を上げると、思っていたよりずっと真剣そうな顔のふたりが僕を見ていた。答えを返せず面食らっている僕に、ふたりがさらにたたみかける。

 「どう見ても夏だろう?こんなに暑いんだ。お前だって、ここに来るまでずっとそう思ってたんじゃないか?」

 「いいや、今は9月だよ。君は賢そうだし、9月が秋だというのはわかるはずだね。確かに今はちょっとばかり暑いかもしれないが、こういうのを残暑と呼ぶのだ」

 「これほどの暑さが残暑であってたまるか」

 「ヒトの主観ごときで季節が決まる訳ないだろう。事実を受け入れたらどうかね」

 「季節の概念を創り出したのはヒトだ。それに、今の暦は昔と違う」

 「君の言う通りなら、季節が3ヶ月で移り変わる今の暦もまた正しいことになる」

 僕をよそに、ふたりで言い争いが始まってしまった。「目玉焼きにはケチャップかしょうゆか、はたまた塩か」みたいな日常会話の範疇ではなく、ふたりは真剣に論争を繰り広げているように見えた。互いに一歩も譲らない(というか平行線の)議論が続く。

 次第に身振り手振りも加わってヒートアップするふたりを前に、僕は却って冷静さを取り戻しつつあった。とんぼ玉を指で転がして、くるくる回る水色の線を見つめる。たしかに最近は秋とは思えないくらいに暑いけど、だからといって大の大人が真昼間から議論するようなことじゃないだろう。いくら田舎に娯楽がないとしても、たまたま居合わせただけの僕を巻き込まないで欲しい。

 「蚊だってわんさかいるぞ。やつらはヒトじゃないが、今が夏だってことをちゃんとわかってるんだ」

 「秋の虫や植物がいつまでも暑いせいで出てこられないだけさ。少しでも涼しくなれば途端に出てくるのだ。今は秋だからね」

 「虫だって無から生まれる訳じゃない。いずれやってくる季節の変化を密かに感じ取って準備をしてるに決まってる。完全に涼しくなるまでが夏だ」

 浴衣の言いたいこともわからなくはないけど、彼の言い分はどこかこじつけのように聞こえなくもない。そもそも、今は夏だと周囲に認めさせようとする理由がわからない。「夏だなぁ」と思うのは自由だけど、それをなぜ自分の中に留めておけなかったのだろう。絶対にインターネットが向いていないタイプだ。

 「気温なんて毎年違うものだ。それを基準に季節が決められているなんてナンセンスだね」

 「暑ければ夏、涼しければ秋だ。古来よりヒトが肌で感じ取る大いなる自然の移り変わり、それこそが季節だ」

 「暑さ寒さの基準だって個人差がある。君が暑いから夏というのはいくらなんでも短絡的じゃないか?」

 スーツもスーツだ。無視したり軽く流せばいいものを、いちいち反論するものだから浴衣もまた熱くなって論争が終わらなくなる。最初は理知的な性格に見えたけど、浴衣に負けず劣らず子供っぽいように思えてきた。絶対にインターネットが向いていないタイプだ。

 「だいたい、昔から君は口を開けば感情論ばかりじゃないか」

 「おっと、論点をすり替えたな。議論じゃ俺に勝てないからだ」

 「論点をすり替えてるのは君だ。君みたいな奴はすぐに自分が論破したと思い込むからタチが悪い」

 「あんただって理屈を捏ねてばかりだ。季節は理屈で捉えられるようなものじゃないのに、知ったかぶって何にでも理屈をあてはめようとする」

 ほら、今度は互い自身を攻撃し始めた。議題といい展開といい最初っからめちゃくちゃな論争だったが、いよいよ崩壊している。こんなものに付き合わされるこっちの身にもなって欲しいものだ。僕にとっては今が夏だろうが冬だろうがどっちでもいい。早くここから解放されて、クーラーの効いた都会の家に帰りたい。ふたりが言い争うせいで、扇風機があるはずのこの部屋も暑く思えてきた。

 「おい、おまえさんは結局どうなんだ」

 「えっ」

 「よさないか。この子だって困ってる」

 「すまんな。見ての通り、こいつが頑固で困ってるんだ」

 「頑固なのは君だろう」

 やっと僕のことを思い出したらしい。いや、話を振られたのは面倒だけど。

 「暑さだけじゃない、そこら中から夏の波動みたいなもんを強く感じるだろ?そしたらもうそれは夏なんだよ」

 「言いたいことはわかります」

 「ほら!この子はわかってるぞ」

 「だがね君、今は9月なんだよ?」

 「えぇ、今が9月なのは確かです。例年の9月が秋ってことも」

 「今年だけ暑いってことかな」

 「来年もそうならないとは言い切れませんが、今年に限るならそうです」

 「じゃあ今年は夏が長いってことじゃねぇか。例年は違うかもしれんが」

 「これまでが秋ならこれからも秋であるべきだ。季節はそんな軽いものではない」

 「えぇい、訳がわからなくなってきたじゃないか。きっぱり決めるのが怖いのかもしれんが、どっちもってのはナシだぜ」

 「そうとも。若者全体の傾向と聞いている。どっちつかずはいかんよ君」

 なぜか今度は結託して僕を非難し始めた。さっきまでの言い争いが嘘みたいだ。これまでのすべてが、いよいよ我慢の限界になった。そもそもこんなところまで来たのが間違いだったんだ。

 「あぁもう!どうしてそう何でもかんでも極端にしか考えられないんですか!」

 ふたりは決して小さくはないけど、怒りに任せて立ち上がった今はふたりを見下ろす格好だ。さっきまでおとなしくしていた子供がいきなり怒ったのを見て、ふたりは面食らっている。その間の抜けた顔がいい気味に思えて、どんどん言葉が流れ出す。

 「今が夏だろうが冬だろうが、僕にとっちゃどうでもいいんです!自分が夏だと思えば夏、秋だと思えば秋でいいじゃないですか。いちいち他人の同意なんて求める必要ないでしょう」

 ふたりがちょっと傷ついたような表情になって少し申し訳ないような気もしたけど、もう今更この勢いは止まらない。こんなに感情に任せて話すのなんて、いつぶりだっただろうか。

 「えぇ、今は確かに夏みたいだ。でも、僕の好きなスイカはすっかり旬を過ぎてしまった!スイカはないのに暑さだけが残された。涼しくならないから諦めもつかないでいる。今は、僕にとっては夏でもないし秋でもないんです。そう思うことのどこがいけないんです」

 鮮やかな赤みのスイカ。汁気たっぷりのスイカ。先月に帰省して食べたのが最後だった。いくら暑くても、いくら景色が夏っぽくても、やっぱり夏にはスイカが必要だ。スイカと花火と、あともうひとつスイカ。

 「きっぱり決めようだなんてのがおかしいんです。季節は急に変わる訳じゃない。移り変わりのグラデーションがあるからこそ去る季節に別れを告げられるし、来たる季節を歓迎できるんです」

 何だってそうだ。少しの判断材料で決めつけて、それで終わり。その後はろくに理解しようともしない。1か0か、クロかシロか、正しいか正しくないか、有能か無能か。そんなのはもううんざりだ。

 「どうせ、僕がどっちに賛成しようが納得なんてしなかったでしょうに。相手をそのまま受け入れようだなんて、考えたことないんでしょうね」

 だんだんどこへ向けたのかわからなくなってきた怒りのままに荷物を掴み、「失礼します。さようなら!」と部屋を出る。暑い空気が僕を抱きしめ、後ろ手に扉を閉めた。バタンという音の大きさと、自分がそれを立てたということには正直驚いたけど、それよりも大きな音がすべてをかき消した。力強い鉄の音。待ちに待った音。ホームに滑り込んでくる電車の音だ。

 車内にいるのは僕だけだった。するすると扉が閉まり、扇風機のささやかな風が僕を捉える。みるみるうちにガラスの向こうの駅舎は遠ざかり、まもなく視界から消え失せた。座席に座るとこれまでの疲れがどっと出て、向かいに見えるこれまた夏みたいな景色を見ているうちに僕の意識は遠のいていった。

 夜になって、僕はやっと家に帰り着いた。持ち帰った野菜を見て母さんは喜んでいたけど、僕はすっかり疲れ果てていて、どこかでとんぼ玉を失くしたことに気付いたのも次の日になってからだった。田舎なんて行くんじゃなかったという思いがさらに強くなる。

 その後、数日をかけて野菜は天ぷらとサラダになった。少しずつながらいくつもの種類があって、おじいちゃんこんなに育ててたっけと訝しんでいたら、近所の人と物々交換しているのだと母さんが教えてくれた。田舎には親切なタイプもいるらしい。

 数日後、家にダンボールが届いた。伝票も何もなく、置き配みたいにして家の前に置かれていた。置き配するにしてもせめてチャイムくらい鳴らして欲しいものだわと母さんは機嫌を損ねていたようだったけど、僕は別だった。中に入っていたのは、いくつもの見事なスイカだったからだ。

 都会にスイカはもうほとんどない。おじいちゃんからだろうと思って、ありがたくいただいた。やっぱり暑い中食べるスイカは最高だった。母さんが作ってくれたスイカジュースも絶品で、僕はそのまま食べる用と搾る用の配分に悩まなければならなくなった。

 その次の週、最後のスイカをダンボールから取り出して切り分けていると、チャイムが鳴った。宅配業者は、スイカのものと同じくらいの大きさをしたダンボールを置いていった。今度はきちんとおじいちゃんの名前が書かれた伝票も貼られていた。宅配業者が違うのかもしれない。

 そんなことを考えつつ荷物を開くと、中身はたくさんの野菜だった。リュックサックに入らなかった分は諦めたものだと思ってたけど、家に送ることで妥協したらしい。暑さが和らぐ予報が週間天気予報の端っこに顔を出した頃だったけど、まだ十分食べられそうだ。

 ダンボールから野菜を取り出して、母さんと野菜室に入れる。すっかり取り出し終わった後、スイカのと一緒に今度のダンボールを片付けておいてと母さんから頼まれた。解体しようとしてダンボールの底を開くと、おじいちゃんからの手紙が落ちてきた。

 キッチンの床に座り込んで、日に焼けた便箋を開く。僕が片付けを手伝ってくれて助かったこと、近くにいるのは婆さんばかりだから男の僕と久しぶりに話せて楽しかったこと、婆さんたちに僕のことを自慢したらたくさんの野菜をくれて大きなダンボールにいっぱいになったこと、またいつでも来て欲しいこと、そして、健康に気をつけて過ごし、母さんや父さんにもよろしく伝えて欲しいことが書いてあった。僕はさっきのスイカを食べながら何度も手紙を読み返した。

 母さんに手紙を見せると、モテモテねぇと笑って、また何かあったらあなたに頼むわねと言われた。さっきまでの僕だったら御免被るところだっただろうけど、今ならまぁたまにはいいかなと思えた。やっぱり、我ながら単純な性格だと思う。

 自分の部屋で、おじいちゃんの手紙を机の中にしまう。スイカですっかりご機嫌になっていた頭の中から、引き出しの閉じる音でチリ、と音が聞こえた。微かなノイズ。澄んだ水に墨汁が落とされたような、晴天の隅に黒雲の影が差したような、そんな小さいけど無視できないチリチリとした耳障りな音。

 引き出しから手紙を取り出して、ひらひらさせながらキッチンへ戻る。手紙を見つけてすっかり放っておいた野菜のダンボール。まだちょっと泥の残った野菜。何かから床に抜け落ちた葉。そして、僕が食べ終えたスイカの皮。

 大きなスイカ。たくさんのスイカ。あるはずのないスイカ。

 今更ながら信じられない気分で、スイカの皮を見つめる。皮は確かにそこにあるし、口腔にはまだみずみずしい味が残っている。間違いなく現実だ。でも、どうして今あるんだ?

 手紙を開いて、食い入るように文字を追う。「ダンボールいっぱいになっちゃってね」どうしてダンボールがふたつある?「みんなが野菜をたくさんお前に食べて欲しいそうだ」どうしてスイカのことが書いてないんだ?「夏野菜を食べるには少し遅いかもだけど、お母さんならきっとおいしく料理してくれる」どうしてスイカだけが先に送られてきたんだ?

 スイカを送ったのは、誰だ?

 僕の背筋を寒気が這い上って、やがて鳥肌と共に全身を覆う。おじいちゃんの手紙が手から落ちる。体がひとりでにスイカの皮から後ずさりする。後はただゴミ箱に入れるだけのものから、なぜか目が離せない。下げたかかとが何か軽いものに当たって、僕はようやく我に返った。反射的に足元に目をやる。

 それはダンボールだ。何の変哲もないダンボール。伝票のない、なぜか突然家の前に置かれていたダンボール。今は、何か恐ろしい秘密を隠していたように見えるダンボール。また鳥肌が僕を包んで、思わず叫びそうになる。

 そうだ。僕はこれを解体して捨てるはずだったんだ。早いところ捨ててしまおう。勇気を奮い起こして蓋を開き、蹴ってひっくり返す。気味が悪い程正確に貼られた底のガムテープを引きちぎるようにして引き剥がすと、チリンという音がして、僕の動きをまた止めた。

 底が暴かれて反転し、筒のようになったダンボール。かつてキッチンの床だった仄暗い穴の底に、キラリと光るものが見えた。闇の中に身をかがめて手を伸ばす。冷たく固いものが僕の指先に触れ、光の中に引き出される。

 切れた紐に繋がる懐かしい小さなガラス玉の奥に、水色の線が揺らめく。夏の空、もしくは秋の空が閉じ込められたみたいだった。

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