新年度!

こんばんは。今日は4月1日、2024年度が始まりました!
私はこの春から修士課程に進学しました。国際関係論を専攻しています。

同級生たちはみんな今日から社会人で、みんな大人になったなとなんだか寂しく感じる一方で、これからそれぞれの場所でどんな人になっていくんだろうとわくわくする思いもあります。私も大学院生として、この二年間でしっかり成長していきたいです。

自分の感じたことや考えたことを言語化して、記録するために、今年は一週間に一本、noteを更新することを目標にします。読んだ論文や考えたこと、また、映画や本の感想を内容として書いていきたいです。

これからいろいろと書いていく前に、研究と趣味で関心をもっていることをとても簡単に紹介します。これからのnoteはこの関心を中心に書いていく予定です。

研究面では、国際関係論における規範について関心を持っています。具体的な規範としては、民主主義・人権規範、とくにLGBTQ+の権利に関する規範に関心があります。趣味の面では、SFが好きです。本でも映画でもドラマでも、現実を緻密に描くものよりもすこし現実から離れた世界に惹かれます。

ここで今回のnoteを終わろうかなと思ったのですが、なんだかキリが良くないので、研究上の考え方やアプローチについて少しだけ書いて終わろうと思います。

上に述べた規範とは、あるコミュニティの中のアクターが、この行動は適切だと期待していることを指します。たとえば、日本ではご飯を食べる前に「いただきます」ということが適切だと考えられています。日本において、食事時に、「いただきます」と言うこと、これは日本というコミュニティの中の規範といえます。

あるいは、「マルハラ」という言葉が最近話題になりました。LINEなどのやりとりで文末を「。」とすると、怒って返信しているかのような印象を相手に与えてしまうということを、この言葉は指しています。たしかに、相手に怒っていないという印象をあたえるために、「。」を避けて、「!」や「~」を文末に置くことが、筆者も含めた若者の間では一般的であるような気がします(TPOにもよりますが)。この意味において、日本の若者というコミュニティの間では、「。」を避けるという規範があるといってよいでしょうか。

このように、規範はアクターの行動に指針を与えたり、制限したりします(このことをを構造(structure)といいます)。構造は何もないところに存在していたり、ずっと変わらないものでもありません。反「マルハラ」規範は、少なくとも近年現れたものです。アクターの誰かが「こっちの方がいいんじゃない?」と明示もしくは暗黙に言い出したことで、みんなもそれに賛同するようになったのでしょう。

構造とそれに拘束されるアクター(規範研究ではエージェントと呼びます)、一方でエージェントによって構造が変化するという双方向の矢印に関連した問題のことをエージェント=構造問題と呼びます。規範を研究する場合、本来ならば、二つの矢印をどちらも見る必要があるのですが、どちらも見ることが実際には難しいことが多いです。そのため、研究上規範に着目するアプローチか、エージェントに着目するアプローチのどちらかが選択されることが多くなります。そして、前者のアプローチが多く採用されています。

一方、私は後者のアプローチに関心があります。「これが適切だよね」と考えられている環境において、他の見方を提示していくこと、あるいは何が適切なのかを探っていくこと、対照的に、そのようなアクターに抵抗し、これまでの在り方の適切さを訴えていく、そのようなアクター間のメカニズムを捉えたいと考えています。

「マルハラ」の話に戻ります。なぜ人々は「。」で文末を終えないことにしたがうのでしょうか。その正しさを何も疑わずにおこなっている人もいれば、周りがやっているから行っている人もいるでしょう。あるいは、こんなケースもあるかもしれません―ネット記事で「マルハラ」を見かけた50代の男性が、若い女性に魅力的に感じてもらうために「。」を使わないようにしている。この男性の規範に従う理由は、適切だからではなく、予測される行動の結果が望ましいからと考えられます。

初期の規範研究は、適切だから行動しているという前提にこだわって論じていました。しかし、この二つの行動の理由を見分けることは場合によってとても難しいかもしれません。私は結果から行動する、適切さから行動する、この二つにこだわりすぎることなく、現実を説明することに重きを置いて分析していきたいと考えています。

すこし脱線してよくわからないnoteになりましたが、こんなことをつらつらと書いていきたいと思います。それでは皆さん、今年もどうぞよろしくお願いします。



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