KISS

アメリカ人のSEに教えてもらった。
Keep It Simple Stupid
設計の大原則、だなと、以来心がけてはいるものの、難しい。

Simple:
単純な構造を保つように心がける。
とかく、手の込んだテクニックを投入して複雑な構造にして、「なんだか、自分ってすごい」的な自己陶酔に陥りがちな傾向があったけれども、わかりやすくないと、メンテナンスしにくい。
自分が書いたコードなのに、半年経つと「あれ、これって、何をやろうとしていたんだっけ」みたいなことは、よくある。自然言語で「解説」の文書(設計文書や、コメント)を残していればいいけれど、個人事業みたいな規模だと、客先(SEがいない相手)からも要求されないし、営業さんも重要性なんか理解してないから、ついその辺は手抜きしがちになる。そうなると、コードの読みやすさが全て、ということになる。
読みやすいコードを書けば、コメントが少なくても、設計文書を手抜きしても、メンテナンスはほぼ問題ない。Simple is Best!だとも、何度となく感じては、いる。

作る側だけではなく、使う側の立場で考えても、やはりSimple is Best.だと思う。
例えば、リモコンのボタンの設計(画面に表示する操作ボタンなどの比喩、だけれども)で、エアコンの温度設定を「上げる」と「下げる」だけではなく、17℃, 17.5℃, 18℃, 18.5℃, ....(中略), 28.5℃, 29℃, 29.5℃..などと、温度そのもののボタンを用意したら、おそらく、かなり使いにくいと思う。
逆に、テレビのリモコンで、チャンネルのボタンを、1, 2, 3, ..., 12ではなく、「+1」「-1」だけ用意すると、一般的な操作感覚からは「使いにくい」に違いない。なので、必ずしも、「操作ボタン」とか「画面要素」の数が少なければ少ないほどいい、とは限らないけれど、とにかく「単純」なのが一番、だと思う。
ほぼ不可能だけど、どんな細かい制御が必要だとしても、「ON/OFF」のボタンだけあれば、それで十分、というのが理想系かも知れない。
案外、AIの技術応用はそこを目指しているのかも知れない。

Stupid:
この、最後のStupidは含めない、KISだけの表現も聞いたことがあるし、別の単語の例も聞いたことがあるけれど、この言い回しを教えてくれた、オクラホマ出身のアメリカ人のRCさんに敬意を表して、最後のSは、Stupidとして、続ける。

Pythonを「バカの言語」と評しているページがあった。

どういう意味なんだろうか、と、バカな私はしばらく考え込んでしまっていた。「バカが使う言語」という意味だろうか?
だとしたら、Pythonという言語は、ものすごくよくできているんじゃないか?という気がする。
逆の場合を考えて、「賢人の言語」というのがあったとして、頭のいい人しか使いこなせない言語、ということだとすると、言語として「意思疎通」の意味をなさなくなる。例えば、IQ120以上の人しか使えない「賢人の言語」と、IQ60程度でも使える「バカの言語」と、どちらが日常的な意思疎通の役に立つか。
その文脈で言えば、コンピュータ言語という「人工言語」であって「バカの言語」というのは、「卓越した表現伝達能力を持つ」という意味で、最高の褒め言葉なのかも知れない、とすら、思えてしまっている。
「バカが使う言語」という意味以外に、どういう解釈が成り立つのか?「使っているとバカになる言語?」だろうか?

「バカになる」とは、どういう意味だろうか?何も考えなくなる?思考能力が衰える?
前述の"Simple is Best."で書いた。スイッチは ON/OFF だけが理想系、だとして、ボタンさえ押せばいいとしたら、操作について、何も考えなくなる。つまり、「使っているとバカになる機械」というのは、その「操作性」において卓越している、という気もする。
例えばだけれども、AIに期待する効果とは、「みんなでバカになろう!」ではなかろうか?
今、これほどAIに対する期待が高まっている中で、「バカの言語」とは、やはり「最高の褒め言葉」なんじゃなかろうか?

話が変わって、私は、ある方の講演会に毎週参加している。
ある方、私はこれまで「師匠」と呼んで、ウェブにあれこれ書いてきたので、ここでも「師匠」のまま続ける。
残念ながら、師匠は肉体から去られてしまったので、もう肉声を聞く機会はないけれども、相変わらず意識体としての存在感は全開の方で、「過去の講演会の勉強し直し」でも、考え込むことしきり、という感じだろうか。
師匠の講演は、深掘りすると「なるほど、こういうことか!」という、いわゆる「エウレカ」みたいな楽しさがあって、肉体を去られ前と今とで、あまり違いがないかな?という気がしなくもない。
(というか、師匠に限らず、両親であっても、友人であっても、肉体を去ったか肉体を持ってるか、あまり気にしていない、気もするけれど、、、。)

なぜあまり違いがないのか。
師匠は「応用編」のような講演ではなく、地方での講演会で初めて参加される方が多い時には「入門編」のような話題を話されてきた。その、最も「基本」となる部分が、「ヒトの実体は、肉体ではなく、意識体=心だよ」ということだろうか。肉体を抜けても「意識体」は永続的に存在する。残念ながら、それを直接感じることのできる人は、極めて限られている、ということがあるかも知れない。

そうして「永遠」の命(「意識体」としての寿命)を持っているのに、なぜ、わざわざ、限られた時間しか活動できない、この「肉体を持って存在している世界」に私たちは肉体を持つのか。むしろ、そちらの方が疑問になる、ように私は感じる。この話題は、既にこのnoteのバックナンバーでも書いたことがあるけれど、「肉体」に収まっていないと、自分とは異なるエネルギー次元(意識体としての格)の違う相手とは交流できない、というのが、創造主の思惑(創造主がこの物質世界をわざわざ創造された目的)だと、師匠は講演会で話された。「意識体」として創造されてから日の浅い方々と、既に何億年も「意識体」として存在している方々(地球での全人口では、ざっくりと2〜3割だと、師匠の講演内容から私は考えている)とでは、生きる目的、意識などが全く異なる。相互に相手を理解するために、この世界が必要なのだ、と、師匠は講演で話されていた。

端的に、この世界に肉体をもつ目的は、「自分とは異なる価値観を持つ人と、接することで、自分自身の意識レベルを上げる(進化する)こと」であり、可能な限り自分とは異なる人々と接し、経験を積んで、その経験を自分自身の意識(=心=魂=「自分そのもの」)に刻み込んで、人類が進化することであって、それが創造主の目的だと、私は理解している。
自分よりも意識レベルの高い方々の行動を見聞きして、理解しようとする、それによって自分が高みに引き上げられる、それはわかりやすい。
ただ、逆の場合もある。自分よりも意識レベルの低い相手が、どう考えて、どういう行動をするか、それを予測し、その相手の行動を取り込んで、少しでも全体としての調和が取れるように自分自身が立ち居振る舞いする。それも「この世界ならではの経験」なのだろうと、私は理解する。

身近な例で言えば、いわゆる「クレーマー対応」で、自分のことしか考えず一方的な主張を声高に展開して、業務妨害というか、世間の迷惑というか、不都合を撒き散らす人と対峙して、どう対処するか、この経験はなかなか大きいように感じる。自分とは次元の異なる相手が周囲にいない世界(意識体の世界)では、こういう経験はなかなかできない。その経験値が、魂を進化させる。

ものを盗み、他人を騙して金を手にする、そういう行為は、肉体だけの世界ならば「カネ」というこの世界での「価値」を手に入れて、まんまと逃げおおせたなら「うまいことやってる」と考える方もいらっしゃるかもしれないけれども、実は「肉体を持った意義」としてはあまり意味がない。
通常の経済活動では、相手が「支払ってもいい」と思う「価値」を自分に支払ってくれる、その条件を満たす代償として「自分は相手に何ができるか」を考えて行動する、そのプロセスが最も「経験」として意味があるものになる、と、私は理解している。その「プロセス」なしで「価値」だけを手に入れようとする、ならば、個人的には「あんた、生きていても(あなた自身にとっての)意味が全くないよ」と、思う。

これ、「あんた、生きていても意味がないよ」という表現だと、周囲がその「あんた」に対して、「我々にとって、あなたは無意味な存在」という意味になる、と思うけれど、私が言うとしたら、含意は、そもそもが、そんな盗みや詐欺で生活しているなら、「私にとっても、あなたは無意味な存在だけれど、それ以前に、あなた自身にとって、生きていたって全く意味のないことをしているね!」という意味になるだろうか。

この、最も端的な実例は、プーチンであり、ネタニャフだろうと思う。罪のない人を山ほど殺している(殺す命令を出している)けれど、(師匠の講演で、「より罪が重いのは、命令に従って殺した人間ではなく、そうした(結果を招く)命令を出した人だ」というのは聞いた記憶がある、けれど、)次元が低すぎて「人を殺すことは悪いことだ」という、それがそもそも通じない相手だという気がする。そういうのを、支持している国民も、次元が低い、と言うことだろうと思う。
本当は肉体を持っている間に、色々と言葉を交わし互いの行動でやりとりして気づく、というのがベストなのだけれども。理不尽な殺され方をした方々、肉体を抜けても意識体としては存在しているから、プーチンにしても、ネタニヤフにしても、肉体を抜けてからが大変だと、理解すべきだろうな、と私は思う。
というよりも、そもそもがユダヤ教だとか、ロシア正教だとかで、そうしたことは教えていないのか?だとしたら、そんな宗教は信仰する意味がないと思う。

実は、世界は極めて「単純」であり「愚直」だと私は思う。Simple であり、 Stupid だと思う。

単純という意味では、「人の実体は意識体である」という、そのことだけ自覚して理解していたなら、盗むことも、殺すことも、騙すことも、全てが無意味だとわかるはず、なのに、たったそれだけの「単純」な事実すら、既存の宗教はカバーできていない、気がする。色々と、やたらと複雑なことを言ってるけど、単純な原理をわざわざ「複雑」に解説している、その多くの説明が誤りだったりしているように、私は感じる。

「愚直」というのは私の好きな言葉で、「バカ」と言われようが、基本的に大切なことを手抜きせずに、単純に繰り返すだけ、ということでいいんじゃなかろうか。
私の中での対義語は「小賢しい」で、利口ぶってあれこれ小技を使って、楽して結果を出そうとしている方々は、この括りで、私は考えている。

極めて単純に「人の実体は意識体だよ」と、そこから発想したなら、盗む、殺す、騙す、全てが無意味だとすぐに理解できると、私は思うのだけれども。
一万人殺して、あるいは百人騙して、肉体を抜けたあと、無事地獄から出て来れたなら(自分の何がどう悪かったか、理解できたなら、)その後、自分が殺した一万人、自分が騙した百人の意識(その方そのもの)から、たっぷり相手の立場を聞かされる機会もあるはずだから、せめて、その後でなら自分がなにをすべきでなかったのか、程度のことは、理解してほしい、そんな気がする。

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