タクラマカン砂漠

この一ヶ月、タクラマカン砂漠という地名が執拗に意識にのぼってくる。なんなんだろう。
今意識を向けなければならないとしたら、たぶん、パレスチナのガザ地区ということになるんだろうけども。

いやいや、今意識を向けなければならないのは、来週の授業教材と、先週提出された課題プログラムのチェックと、年内納期のシステムのプログラミングだ、という立場もあるんだけれど、その辺の優先順位の「おかしさ」加減は過去40年来の課題で・・・。いまさら、何だというんだ?思えば、40年くらい前に「誰かと出会うため」か「どこかに辿り着くため」か、何かそんな感じで迷走を始めてから、ずっと「優先順位」はおかしかった。目の前の仕事が第一優先になったのは、納期で切羽詰まった時だけ、だったかも知れない。20年前、「師匠」に出会ってからも、優先順位のおかしさは、変わらなかったなぁ・・・。それはさておき。

「師匠」と私が書いたのは、「創造主の意識を受け取れる方」だと私が認識している方のことで、20年ほどまえから師匠の「勉強会/講演会」に参加して、お話を伺っている。その、師匠のお話がなければ、このページを書いている私の「考え方」は、ない、と思う。師匠の講演が大前提になりすぎていて、自分が考えたように書いているけれど、どこかで師匠に聞いた話も(私が思い出せないだけで)結構含まれているかも知れない。その点は悪しからずご了承願いたい。

タクラマカン砂漠、と言えば、中国の新疆ウイグル自治区、というのが気になりすぎる。

少し前に書いたページで、習近平氏がいずれ肉体を抜けた後、次に肉体を持つべきと本人が考えそうな場所として、私は台湾を挙げたけれども、今その部分を書いた時のことを思い出すにつれて、「なぜ、新疆ウイグル自治区だと思わなかったんだ?」という疑問が湧いてきている。
おそらく、現在の中国共産党の関係者は、少なからず、次は新疆ウイグル自治区に肉体を持つだろうという気はしていた。生粋のウイグル人として漢民族の支配をどう感じるか、どう考えて、どうしようと思うか、その両方を経験しなければ、おそらく肉体を持った意味がほとんどない。肉体を抜けて、現在の「中国人」という意識から離れて(おそらく、既に何万回も肉体を持たれた場所は、地上を網羅するほどに広い人がほとんどだと思うけれども、)「中国人として肉体を持つ前」の意識体としての記憶に戻れば、逆の立場ならどうだったかと考えるのは、至極自然な流れだと、私は理解している。

師匠の講演会から、私が理解しているのは「肉体を持つ」というのは「経験を積んで進化するために、必要不可欠な条件」だということだけれども、例えば「抑圧される側に生まれた」経験が自身の進化に役立つのは、「自分が抑圧することができる立場になった時に、抑圧される側のヒトが、何をどう感じるか、『自分のことのように』理解でき」た時であって、相手を抑圧できる立場になった時に、抑圧される側がどう感じているか、結局理解できていなかったならば、やはり両方の経験が不十分、というか、何よりも「抑圧される側」の立場が魂に刻み込まれるまで、経験するしかないんだろうかな、と思えている。

結局、抑圧される側に肉体を持つと、抑圧する側にいた時に「高圧的」な態度をとった人ほど、過激な行動を取ろうとする、ような、なんとなくそんな気がする。そして、どこの国であれ、今「政府の要人」のような立場にいる方々は、既に、嫌というほど両方を体験しているはず、なのに、過去に肉体を持った時の経験を魂に刻むことができず、今に活かすことができずに、何度でも同じことを繰り返している。そんな気がする。

ローマ帝国はユダヤ人国家を滅ぼした。その時にローマ人として肉体を持った人が、今度はユダヤ人として何度も肉体を持ったりしている。あるいは、ユダヤ人として「滅ぼされた」側だった人が、今度は漢民族のように抑圧して他の民族の文化を喪失させるような行動に出る。何一つ学べていないのが、現在の地球人なんだろうか、と思えてならない。

それが、肉体を持った時の「民族」というものの「しがらみ」だとしたなら、ユダヤ人は帰るべき土地を失った経験が、不十分で、まだあと2回でも3回でも「帰るべき土地を失う」経験を積む必要がある、ということかも知れないし、漢民族はということになると、一度モンゴルに支配された程度では不十分だった、ということになるのかも知れない。トルコ対クルド人ということになると、トルコについてはオスマン帝国時代以外の、ローマに支配された時代の経験などが不十分、ということになったりするんだろうか?なんだか、凄まじく、古臭く、そこまで遡るしかないのか、と、思えてならない。なぜ支配する側は「支配され、抑圧されている側の人々の心情」を理解できないんだろうか?その「理解できなさ加減」が、私には理解できないでいる。

師匠が、「まだ、こんなことをやっているのか」と、ふと思ってしまったのは、マラッカ海峡の海賊のニュースだったと講演で聞いている。ついうっかり、そう思ってしまったら、地球意識が反応して、大地震が起きた。と、私は理解している。人を殺す、盗む、力任せで奪う、そして、殺され、盗まれ、力任せで奪われる、そんな両方の経験を、ほとんどの人が既に何百回と経験しているはずだ、というのが私の理解で、それなのに、全くその経験が活かせていない。

やはり師匠の講演会の話題で、なぜ、マヤ文明が滅びたのか。マヤ文明では、政治家よりもシャーマンのような宗教指導者が権力を持っていて「神に捧げる」儀式として、生きた人間の心臓をえぐり出したり、していたらしい。生贄として、少女を泉に突き落としたりもしたらしい。それを意識体の世界から見ていた、マヤ文明ともゆかりが深かった7次元の女性が、必死で「お止めなさい」と意識を送ったのだけれど、地上では誰もその意識を受け取れなかった。結局、地球意識(あらゆる生命を育むこと、だけを意識している、ヒト型ではない意識体)が動いて、マヤ文明の地域に「強烈な酸の雨を降らせた」らしい。(講演を聞いていて思った。硫化水素のような、火山性のガスを大量に含んだ雨を、火山の噴火とワンセットで降らせたのかな?)そして、その後で酸を中和するようなアルカリ性の雨を降らせて、人類だけではなく他の生物種も巻き込みながらも、とにかくマヤ文明の「人々」を痕跡なく消し去った、らしい。実際、マヤ文明では「ヒト」の痕跡があまり出土していないのではないか、と私は理解している。(どうやって、アルカリ性の雨を降らせたのか、これはわからなかった。けれど、地球意識とはモーゼ(モーリア)様とか、アッラー(アール・エル・ランティ)様などよりも、さらに一次元上の意識体だから、我々下っ端の「科学的理解」などを超越した方法があったに違いない。)

ここ一ヶ月くらい、タクラマカン砂漠、という地名と、師匠が講演で話された「マヤ文明」の話が、何度となく意識に飛び込んできて、これは一体どういうことなのか、「言葉」にするのに切り口が見つからずに沈黙していたら、パレスチナで衝突が起きた。それでも、やはり、意識に再三のぼってくるのは、タクラマカン砂漠、である。なんなんだろう。

パレスチナの状況を、ユダヤ人は理解していたんだろうか?人は全て尊厳を持って生きるべきだと、私は理解している。誰もが他者を尊重すべきだと、私は思う。ただ、ユダヤ人の場合には、相手を理解することができないんだろうか?かつて、エジプトで名前すら与えられないで「そこの男、そこの女」と、指示されて働かされた、「出エジプト記」以前のユダヤ人の先祖の経験は、何一つ活かされていなくて、パレスチナ人をそのように扱おうとしていたんだろうか?経験が不十分だとしたら、また同じ経験を民族として積む必要があるんだろうか、と思えてならない。
ただ、そうした「裁き」は「ヒト」が行うのではなく、地球意識や、さらには上の創造主に委ねるべきなんだろうなと、私は思っている。

で、地球意識に委ねるとしても、おそらく地球意識にとっては、ほとんど全部の人類が「似たりよったり」で、地球丸ごとが対象になったりするのかも知れない。
ロシアとウクライナも、どっちもどっち。ウクライナは、ロシア語を話す自国民に対して「市庁舎を爆撃する」という行動をとった、と理解している。ロシアについては、言わずもがな。すべてが絶望的な方向に進んでいるような気がする。我々地球人類には、感情をコントロールして他者の尊厳を尊重する理性は、期待できないのかも知れない。

で、なんで、タクラマカン砂漠、なんだろうか?かつて、タクラマカン砂漠は豊かな土地で、多くの人が暮らす文化の中心地だった?それが、何らかの理由で荒廃した砂漠になった。そうなの?

よくわからないけれど、気になって仕方のない話題を、吐き出してみた。これで私は、目先の問題を「第一優先」にできる、と、そんな気がした。

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