「戦争はなくならない」

数日前の、配信ニュースの記事でこのフレーズを読んだ。
ちょっと、ムッとした。違うでしょ?「なくす気がない」というのが正しくないか?

「なくなって欲しいけれど、何もできない」って、それも正しくないと思う。
「なくなって欲しいけれど、何もする気がない」ってのが正しいと思うんだが。

私自身は、「武器の輸出入」には断固として反対してきた。確かに具体的な行動としては何もしてない(申し訳ないけれども、生活を維持するのがやっとで、とても余裕がなくて、NGOとかNPOとかにも関与してない)けれど、この意見表明だけは言葉にして書いてきた。
自分にできる範囲で、できることをやる、それだけだけれども。

大統領とその一族だけが潤うような政治を行い、国内に反対勢力がいると、武力などで弾圧する。思えば、そうした国が世界中に数多くある。多くの場合、「西側諸国」は「反民主主義的」な動きをしている国に対しては、そうした国内の反対勢力を支援するケースが多いと思う。そうなると、「反欧米」だったロシアとか、某国とかは、その大統領や、その国の政府自体を支援して、武器供与を行う。欧米や、ロシアがそれぞれの対立する勢力に武器を供与したりするから、代理戦争としての構図が出来上がり、内戦が起きる。
その内戦に、民族対立や、宗教対立が重なってくると、単なる内戦ではなく、周辺国を巻き込んだ「戦争」の様相を帯びてくる。
相対的には貧しい国、小国などの場合が多いんだろうと思うけれど、そうした地域紛争では、戦車や航空機などでの戦闘というよりも、価格の安い自動小銃などでの殺し合い、それによる泥沼化が多いように感じる。

そして、カラシニコフなどの自動小銃を無償で提供したり、あるいはビジネスとして売りつけて、内戦やら戦争やらを焚き付けている「反欧米」勢力の国の一つがロシアだったと思う。
そのロシアが、今は自らが引き起こした「戦争」(誰が見ても、ウクライナでの出来事は戦争だと思うんだが)によって、とても「他国への干渉」などができない状況に落ち込む可能性が、今、極めて高くなっていると思う。

特定の利権が絡んでいない限りは、欧米が民主化勢力を支援するケースが多いから、必然的に独裁政権などへの「反政府勢力」を欧米が支援し、その結果として独裁政権などは、親ロシア、親某国になってくる。だから、自動小銃などの供給を止めることが、こうした地域紛争への抑止になるはずだ、というのが私の考え。

私の主張は、「武器輸出の全面的な禁止」だった。今は、相当にブレている。
安倍元総理が、日本の「武器輸出三原則」を内閣の判断だけで覆して、オーストラリアへの潜水艦売却など、日本からの武器輸出を可能にした際には、猛烈な勢いで「反安倍」のページを書いた。その私が、今は、ブレている。ウクライナへは自衛隊の武器を供与すべきではないか?その方が、ロシアを抑え込むことで、マクロに見て、世界の平和に貢献できるんじゃないか?そんな気がしている。

ウクライナは、見事に「専守防衛」の様相を呈していて、ロシアの民間人の殺傷も行っていないし、攻めてくるロシア兵に対して攻撃をしているだけで、戦い続けている。前言を翻すようだけれども、私自身の感情は、自衛隊の装備品なども含めて、ウクライナへの軍事支援もできないものか、という気持ちにブレている。

前言の「全面撤回」ではなく、かつての私自身が書いた内容とも「整合性」を取るならば、普遍的なルールとして、国境を跨いでの武器の移動に関して、例えば、国連総会などの決議や承認を必要とする形で、武器の移動を「国際社会の管理下」に置けないものか、と考える。国連安保理は、ロシアが常任理事国だから、例えば、ロシアによる戦争犯罪の糾弾で、国連総会などで安保理からロシアを追放できない限りは、もはや国連安保理は機能しないだろうと思う。だから国連総会。

第二次世界大戦で、日本は連合国と戦った。その反省もあって、日本は「専守防衛」や、「紛争解決手段としての戦争の放棄」などの立場を取るようになった。その憲法の存在と、日本からの「武器の輸出」が整合するのかどうかについては、やはり無理かもしれない、という気はしている。ただやはり、ウクライナを支援するためには、ウクライナで殺されようとしている多くの民間人を救うためには、現状は武器供与も必要かも知れないと感じている。

他国に迷惑をかけた、その反省からの「戦争の放棄」である以上、前提として優先すべきなのは「国際社会が認めた平和の構築」であって、「日本という自国の権益のための戦争」でない限りは、軍事行動や軍事支援を可能とする憲法の見直しも必要なのではないか、と思えている。(考え方において、私自身がブレたとも言える大幅な軌道修正。)だとしたら、「国際社会が認めた平和の構築」の「国際社会のコンセンサス」を具体化する最も有効な手段は、「ウクライナへの武器供与の是非を判断する、国連総会での決議や承認」だと考えた。「現在のウクライナ」という具体例が出てきた。具体的な問題に対して、最適な解を見つけるために、日本の憲法も見直す必要があるのかも知れない、と考えている。

そして、思う。スーダンでも、イエメンでも、シリアでも、外からの「武器の流入」がなければ、少しでも「紛争解決」は可能性が高まるのではないかと考える。一人でも避難民(Refugee)を減らすためには、「国際社会」でのルールは、フラットに、ダブルスタンダードを認めないものであるべきだと考える。そうしたルールが国際的に成立したなら、多少なりとも、世界での紛争を減らせると考えるのだけれども、どうなんだろうか。

ほんの数百年前には、「奴隷制度」が合法な国があった。人身売買が合法化されている国は少なくなかった。と理解している。それが、今は「奴隷」の存在を合法化している国は、ないんじゃないか、と思いたい。調べていないけれど、たぶん、ないんじゃないかな?という気がする。(あったりして・・・)
つまり、だ。言いたいことは「奴隷制度をなくそう」と、誰かが言い始めた。その結果として「奴隷は必要だし、奴隷制度がなくなるはずはない」などという考え方が、前世紀的なものとなり、今では、国際的にも認められないものになってきた。つまり、「変える、変えようという強い意志」さえあったなら、変えることはできる、ということなんじゃなかろうか。

もし、世界から「戦争をなくそう」と本気で考えるならば、「戦争はなくならない」などという「諦観」を捨て去るべきなんだろうと思う。「戦争はなくせる」と考えて、そのための具体的な手段を一つでも多く講じるべきなんだろうと、私は考える。あえて言葉にするならば、「戦争はなくならないという諦観」を持ち続けて、そうした主張を続けることは、「戦争が起き続けている現在の社会」を、消極的に、未来に引き継ごうとする行動だと考える。
「戦争はないのが当然」だと考えるべきで、戦争が起きてしまっている現状を「あってはならない状況」だと考えて、戦争をなくすための「具体的な手段」を一つでも多く講じるべきなんじゃないか、と思う。
その上で、ある程度「現実に妥協」して、武器の存在を容認するならば、武器の移転を国際社会の管理下に置くことで、紛争の解決を図ることは、現実的に「有効な手段」にならないか、と、考えている。

この下、私の師匠の講演会の内容に根ざした表現を用いる。

創造主は、私たち人類に「調和」を求めている、と私は理解している。
私の考える「調和」の一つの形態、とは、「平和共存による、互恵的な繁栄の享受」だと思える。その文脈で、平和の実現のためには、理想的には「武器の存在」を、現実的には「国境をまたいだ武器の移転」を、国際社会の管理下に置くべき、だと私は考える。

なんだか、日本のマンガに「諦めた時点でゲームセットだよ」という表現があったらしい。残念ながら、私はそのマンガを読んでない。(とても、そんな余裕がなくて・・・)「戦争はなくならない」と、諦めた時点で人類はゲームセットする、かも知れない。

なぜ今、師匠のような方が肉体を持たれているか。

宇宙の中で、地球人は「好戦的で、危険な存在」だとみなされている。だから、多くの宇宙人は地球に近づこうとしない。宇宙戦争などあり得ない。彼らすべてが、調和による平和共存を実現している。地球人類の意識レベルから、宇宙人も好戦的だなどと考えたなら、ますます呆れられるだろうと思う。師匠の講演会を聞いて、そう理解している。
加えて、もし、現状から何も変わらないようであるなら、物質世界を肉体とする創造主が、地球という星を太陽系ごと消し去ることもあり得る、らしい。そうなった時には、人類にとっては「諦めた時点でゲームオーバー」だと思う。その決断を下すために、師匠のような、意識の世界と意思疎通できる方が肉体を持たれている、と私は理解している。

カラシニコフなどの輸出で、他国民の血を流すことで潤ってきたロシアが、戦争の当事国となっている今こそ、「戦争をなくす」ための行動を具体化する、絶好のチャンスだと、私は考える。

私たち人類の「意識」すなわち、今何を考えているか、は、上の方たちによって一人残らず見られている。「上の世界」は意識体の世界で、肉体という「投影された」存在ではなく、意識そのものの方こそクリアに伝わっている、と考えるべきだと、私は思う。三次元の物質世界が高次元の存在の投影に過ぎないことは、おそらく、物理的、あるいは数学的に証明されるだろうと私は思う。数学的にはおそらく、物質世界は11次元か、12次元の投影だと、私は理解している。
私には、師匠のように上の世界と意思疎通することはできない。けれど、もし、師匠のようにクリアに「上の世界」と意思疎通できたなら、今世界のどこで誰が何を考え、何をしようとするか、すべて指摘することが可能だと思っている。

ウクライナについての新たな状況のニュースが流れる度に、私たちの意識が、私たちの心が激しく血を流している。そんな状況を、上の意識体の世界でも共有している、私にはクリアにはわからないけれど、そんな気がする。
それなのに「どうせ何も変わらない。戦争なんてなくならない」と言葉にすることは、「戦争」という愚かな行為を消極的に未来引き継ごうとする「陰謀」的な行為だと、私には思えている。

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