虫も殺さない

師匠の講演会に参加している方々の奇妙な行動は、周囲には知られているみたいだ。
なんて、他人事のように書いているけれども、実は私も教員時代に、学生の前で、披露してしまったことがある。

私の体験談。
研究室、と言うか、退官された先生に使われていた実験室を譲っていただいて(と言うか、上の方に話を通していただいて)、そこを私の居室兼学生の溜まり場にしていた時期がある。教員の居室の割り当てがない大学でしたからね。とてもありがたかった。

学生は、ポテチを食べながら漫画を読んだり(当時は、スマホで漫画を読める時代じゃなかった、)真面目にレポートを書いたり、とにかく自由な空間として使っていて、質問があれば私も答える。そんな部屋で、床には、ポテチとかお菓子の破片がそこそこ散乱していただろうし、カップ麺の食べ残しが残っていたり、とにかくG君の食事には事欠かない環境だった。

その部屋で、女子学生が「キャー」とか騒ぎ、男子学生も「お〜」とか声を上げて、何事かと思ったら、G君(念のために書けば、ゴキブリですが)が出現したらしい。そこで私が取った行動。
自宅では焼き海苔の容器を重宝して使っているけれど、なんだったか忘れた。一応、パプアニューギニアじゃないし、素手ではなかったと思うけれども、私も、G君を追いかけ回して、とにかく捕獲に成功した。そして、G君を建物の外まで持っていって放した。「どうしたんですか?」と聞かれたから、「外に逃した」と答えたかも知れない。あの時、本気でG君を追いかけ回す私をみて、学生はどう思っただろうか・・・(まぁ、普段の私が、なんせ私ですから、違和感はなかったに違いないけれど。)

実は、師匠の講演会の討論というか、講演内容についての話し合いの時間などで、他の勉強会の会員の方々も、職場などで似たようなことをされていた話は聞いている。
職場にハエが入ってきた。追いかけ回して捕獲して外に逃す。(女性です。)最初のうちは、職場でも奇異な目で見られていたそうだけれど、そのうちに「あ、またやってる」みたいな感じになったらしい。ゴキブリでも、ハエでも、蚊でも、ムカデでも、とにかく殺さずに、人間の生活圏から外に出ていってもらう。というか、捕まえて強制的に外に出す。これをやってる、勉強会の会員の方、結構いらっしゃるみたいだけれども・・・周囲からは変な目で見られる、というか、やっぱり「奇異な行動」には違いない。「普通の人」は、殺虫スプレーを振り回すとか、紙を丸めて引っ叩いて殺そうとするか、そんな感じだもんなぁ。

私なんかもう、20年近くそれをやってる感じだろうか。幸いなことに、大学教員になりたての当時のキャンパスとは、その後は事情も異なって、この大騒ぎを披露する場面はないし、空調完備のビルなんかで仕事をしている人の場合には、そうした場面に出くわすこともないのだろうけれど、ある意味で私だけでなく、開き直っている方も多い気がする。

なぜならば、師匠に「あらゆる生き物の生命を、粗末にしてはならない」と聞かされている。

それじゃぁ、私たちは、ベジタリアンか、と言えば、そんなことはない。というよりも、植物だって動物と同じく「生き物」で、植物を食べるのも動物を食べるのも、一緒じゃないの、と私は考える。普通に肉も魚も食べる。
ただ、個人的に私は、生野菜であっても、「君たちの命をいただくよ、ありがとう」という意識は持って食べている。だって、生野菜なんて、特に植物は「商品」として流通していても、まだ細胞のほとんどが生きていることが多い。というよりも、植物の場合細胞レベルで死んでしまっていたら、「生鮮食品」の括りでは商品にならんでしょうが。当然、炒めたものでも煮込んだものでも、食事の際の感謝は、師匠の講演会に足を運ぶようになってから、以前よりも意識するようになった。基本的に、私たち人類が口にするかなりのものが、生き物の肉体であると、私は思っている。全てとは言わないけれど。(塩とか水が「生き物」か?突っ込まれるだろうなぁ、と思って書いているけれど、その議論は長くなるので、ここでは書かない。)

なぜ、「あらゆる生き物の生命を、粗末にしてはならない」のか。その理由を、師匠は講演会で話されて、私たちは聞いている。気の遠くなるような時間スケールの話が出てくるので、説明は割愛する。(前提となる部分を、まだ私は、自分のページで書いたことがない。説明が長くなって、その説明に辿り着くまでに、何ページ書く羽目になるかわからない。)
その説明の伏線の一つになる、と思うけれど、師匠は講演会で「神」とか「創造主」という単語を普通に使われている。そう書くと、「あ、シンコーシューキョーだ」と決めつける方々が絶対にいると思うから、実を言えば、「徹底的に言葉にして書かなきゃ」という思いがある反面、「あんまり、言葉にしたくないなぁ」という自己防衛の意識も働いてしまって、毎回言葉の構成に相当に神経を使っている。疲れるもの。

今、旧統一教会が話題になっている。師匠も(この「も」という助詞の解釈に、注釈を入れてたいくらいだけれど、)講演会で「神」とか「創造主」という単語を使われるけれど、会員に「ツボを売れ」みたいにしてお金を集めることは、絶対にないなぁ。
それどころか、年に2回、バーベキューというか、食事会というか、会員同士が親交を深めるための機会を、師匠のポケットマネーで振る舞ってもらっている。内容は、間違いなく政治家の主宰する「パーティー」なんかより、遥かに充実している。

話が逸れる。政治家主催のパーティーに、一度だけ出席したことがある。パプアニューギニアの首相が来日された時に、日パ友好協会関係の政治家がレセプションを開いた。ニューギニア方面遺族会の会長さんの誘いで、会費1万円を払って参加したのに、ほとんど食うものも飲むものもない。ビールはコップで2杯飲んだら、どこにも中身の入っているビール瓶が見当たらなくなった。一通りのスピーチが終わった後、パプアニューギニアのPM(Prime Minister)の前に、名刺を持った日本人が行列を作っていたのと、主催した議員が、スピーチの中で、首相の名前を読む際に、一度口籠もって紙を見ながら読み直ししたこと、だけは、はっきりと覚えている。なんてことを思い出してみると、そもそもが、政治家主催の「パーティー」の、食事や飲み物の中身を比較の対象にすること自体が、大間違い、なんだろうか。ってか、参加する人の目的も、飲食じゃないもんね。一度は経験したから、こうして自分の経験を書けるけれども、一度で十分。

普通の「シンコーシューキョー」は、信者からお金を集めたりするのに、師匠の勉強会では、なぜ、会員が師匠のポケットマネーにたかるために、じゃなかった、会員同士の親交のために、師匠のお金で懇親会など開けるのか。なんだか、師匠は、必要な時に必要な金額を手に入れるために、ロト6とかロト7とか買ってるらしい。(それがなかったら、別の手段も選んだのだろうけれど。)
さすがの師匠も、創造主の思いを伝えるため、一人でも多くの人にそれを知ってもらうために「効果」があるためのお金ならば、ロト7でも、年末ジャンボでも、「普通に、合法的に」当選金を受け取れる、ようだけれども、もし、師匠が「ご自身の娯楽のため」などを意図されたなら、おそらくもう、二度と「当選」することはないんだろうな、と、私は勝手に推測している。(師匠が、講演会で、そうした話をされたかどうか・・・もしかしたら、されたかもしれない。)
いや、「神様が何ちゃら」と、人前で話をされるくらいの方なら、もし神様が「必要」と判断されたなら、間違いなく「宝くじ」の当選番号も伝えて下さるんじゃないかな、と私は思う。だったら、信者から金を集める必要があるの?と、私は思ってしまうんだけれども。別に、誰が誰を、例えば文鮮明であっても崇めようとも、それはその人の勝手だから、どうぞご自由に、という感じだろうか。
それなら、私は、と言えば、いやぁもう、私の本心なんて、「いい女がいたら抱きたい」だの、「楽して生活したい」だの、ドロドロ、ですから、師匠みたいな訳にはいかない、と、確信してますから、私は、セカセカと仕事をすることにします。

私たちの講演会は、「市民会館」とか、「文化センター」とか、公共の施設を借りて開催しているから、そもそもが、そんなにお金はかからない。それこそ「どこぞ同窓会」なんかの会場費よりも、遥かに安く仕上げている。(こういうのの幹事をやったことのある人なら、すぐにわかるはず。)価値があるのは「コンテンツ」だけだから、会場なんか気にする人はいないし。
例えば私自身が、もし、「師匠の講演会の内容」から「創造主の思い」だとして、世界中に情報を発信したいと考えたなら(この表現、もし、「私自身」が「創造主の思い」を伝えたいのだと解釈されたら、それは困る。私が、「師匠の話された言葉」を、可能な限り正確に、世界中に伝えたいのだと、そう解釈してもらったなら、ありがたい。下手すると、私が地獄の深いところに落ちるから・・・と、話を戻して、師匠の講演会の内容として、)「創造主の思い」を「全世界に発信」するのに、一円もかけていない。
今私が使っているプラットフォームは「note」だけれども、一円もかけずに使える。(こんなことは、起きえないけれど、)仮に私が「神の思いを伝える」立場になったとしても、誰かから一円だって集金する必要がない。それを、私は30年も前から、一番多かった時でも月額3千円程度の通信費+サーバ費用だけで続けていて、やっと、「コンテンツ」を提供してくれる師匠に出会えたから、ようやっと、場繋ぎで、ひたすら話題を探して書き続ける状況から、「師匠の講演会の内容」を書けばいい状況になって、こうして書いている。(私は、「チンドン屋」だと思っています。クラリネットと太鼓などを駆使して、とにかく、一人でも多くの人の注意を「師匠」に引きつけるのが、私の仕事、かな。ただ、師匠と出会って、私の迷走は終わった。)

そもそもが、「神」は万人に平等だと、(そうでない(シンコーだったかなぁ)宗教も、確かあったような記憶があるけれど、大半のメジャーな宗教では)「人」の差別をしていない。加えて言えば、それが物理現象として起きているならば、人種も、国籍も、性別も、一切関係なく「同じ物理法則」が適用される、はずだと、私は理解している。師匠の講演内容は、そこまでカバーしている。それなのに、「お金を払えば神の思いを聞ける・・・」なんていうのは、「その思い」は、「『神様の』じゃなくて、『あなたの』でしょ」と思ってしまう。(うちのお墓があるお寺さんからは、毎年振込用紙が送られてくるもんね。肉体を抜けたら、もう、お寺も教会も、何にも関係ないのに。説法無用。)

って、徹底的に、話題が逸れまくっている。「逸れ」まくってるだけに、そこが「それ」、私の持ち味、ということで・・・

私の師匠の「講演会」で、師匠が「あらゆる生き物の生命を、粗末にするな」と伝えている理由。(書くのが面倒なので、一言でまとめるなら)「いずれ、一つの意識体として内包される可能性があるから」だと理解している。「可能性」と書いたのは、人でも虫でも、殺しまくっているような人は、長いタイムスパンの中で、いずれ消されるか、忌避される可能性が大きい、ということだろうか。私は、そう理解している。「消される」方はわかりやすい。「忌避される」方は、いわゆる「仲間外れ」で、人としての意識体としても、「生命体」としての意識体としても、孤立する、ということになるんだろうか。(理解が不十分。こうして、自分の言葉を使ってしまって、そこに間違いがあると、後が怖い、けれど。)

今、大川隆法氏として肉体を持たれている方が、かつて、釈迦というか、釈迦族のゴーダマ・シッダルーダとして肉体を持たれた時に、「無益な殺生は避けるように」説かれたらしい。それと、「意識体は不滅で、何度でも肉体を持つ」という教えとが、おそらくは弟子のどなたかの「誤訳/誤解釈」などが原因で、「人は、虫に輪廻転生することがある」という形で広まってしまった、らしい。それは無い、と師匠はおっしゃった。「ヒト」の意識体は、それを受け入れられるだけの「肉体」でなければ、入ることができない。つまろ、ヒトは、ヒト以外には転生しない。「前世は蜘蛛」だとか、「来世はゴキブリ」などということは、ありえない、とい師匠はおっしゃった。「蜘蛛」の肉体は、「ヒト」の意識体のエネルギーレベルを受け入れられない。

ただ、師匠は、「蜘蛛」だろうが「ゴキブリ」だろうが、あるいは「アメーバ」であろうが、そうした「エネルギーレベルの小さい意識体」であっても、いずれ、より大きな意識体に統合されて進化する際に、「一つの仲間」として(適切な表現が思い浮かばないけれど、とりあえず思い浮かぶ範囲で「融合」だろうか)「融合」される、と、聞いている。意識体は「球体」だとおっしゃった。「神」と呼ばれるような高次元の意識体は、意識体の世界では、普段光の球、「球体」として存在している、と。その球体が集まって、例えばバスケットボールだけで「稠密」な構造を作ろうとしても、隙間ができる。間を野球のボール、ピンポン玉などで満たしても、まだ隙間はできる。さらに細かい隙間を埋めて、稠密な「巨大な意識体」を構成するためには、最後は「ゾウリムシ」レベルの意識体まで含める必要がある、と。そうして、例えば「地球意識」など、より上位の意識体に、本来はいずれは「ヒト」も進化するべき存在なのだと、私は理解している。
私が小学生だった頃の記憶。理科の実験で、「50ccの水」と「50ccのアルコール」を混ぜると、何ccになるでしょうか?というのがあった。100ccにはならない。アルコールと水とでは、分子の大きさが異なるから、体積は50+50=100ではなく、もっと小さくなる。っていうのは、「稠密性」の説明にはならない?

この段落は、私の理解。
地球意識も、人類の一人ひとりの「意識」に反応できるだけの稠密性を持っている。だから、ヒトが、あまりにも(ヒトを含めて)「生き物の命」を粗末にする、そういうヒトが多ければ、そうした地域を台風だの地震だので「浄化」しようとしたり、時には大陸ごと「リセット」しようとしたり、される、と聞いているけれども、その「地球意識」も、何百億年も前には「ヒト」だった意識体も構成要素として持たれているのかもしれない。だからこそ、「ヒト」の意識として、(何が該当するか、説明しきれないけれど)「止むを得ない殺生」と、そうではない「無益な殺生」とを区別できるし、その「判断」に基づいて、時として大規模な「リセット」も行われる、のかも、知れない。

私たち「ヒトの肉体」も、「肝臓」とか「心臓」とか、それぞれ「細胞がより集まった単位」で「意識」を持っていて、それはヒトによって内包されている。さらに、その肝臓とか心臓も、「細胞」によって構成されていて、それぞれの「細胞」が意識体として「意識」を持ち、その構成要素である「分子」も、さらに細かく「原子」や「電子」も、さらに細かくπ中間子も、全てが、「それぞれのエネルギーレベル」に応じて「意識体」としての実態を持っている、と、私はそう理解している。「意識の階層性」

「ヒト」の意識は、「創造主」の意識体と同じ(言葉の貧困で申し訳ない)「ヒト型意識体」だけれども、太陽も地球も、「ヒト型」の意識体ではない、と、講演会で聞いている。キリスト教の聖書で書かれている「神は、ご自身の分身として(だったかな)ヒトを創造された」みたいな表現。(記憶が不鮮明。)「ヒトの意識体」は「創造主の意識体」と同じだと、そう私は理解している。つまり、「肝臓」も「地球意識」も、「ヒト型」ではない、と、私は理解している。それでも「意識の階層性」は成り立っている、と理解している。(師匠は、自然科学の素養がないと理解できない話題を、平然と話されることがある。)

それは、「ヒト」の意識体から、内臓、細胞、分子、原子、素粒子、のレベルに細かくしても成り立つし、上は「地球」「銀河」へ広げても成り立つし、そういう「意識の階層性」が存在する、と、師匠は講演会でおっしゃった。(ここは、間違いなく、「会員以外に聞かせてはならない」レベルの話ではない、と理解している。うっかり、「門外不出」を私が書いてしまったなら、は〜い、腹を括って、落ちるところまで落ちま〜す!ってか、平然と神の名を金儲けに使う方々、ほどは、深くないと思うけれど。)

いずれにせよ「融合」された時のためには、私たちは「あらゆる生き物の生命を粗末にするべきではない」のだろうと、理解している。案外、相手が私たち個人の意識を、ピンポイントで覚えていたりするかも知れない。
ゴキブリが、スプレーを持って追い回された挙句に、殺虫剤のスプレイで死んでしまった。その「殺されたゴキブリ」が、「殺した私」を、ゴキブリとしての肉体を抜けた後も、私を覚えているかも知れない。私はそう理解している。

考えすぎて疲れた。とりあえず、伝えたかったこと。「師匠の講演会は、いわゆるシンコーシューキョーじゃないです」と、それだけ伝われた、十分かな?
って、明らかに表題に反している。

「どんな生き物の命も、安易に奪うな」と、伝えたかったのは、それだけ、かな。(言うまでもなく、ヒトも含まれる。)

読み返して推敲しようとすると、ますます訳が分からなくなりそう。書きたかった内容は、網羅した気がする。とりあえず、自分の感性を信じて、このページはこれで終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?