1をiにする話


生みの苦しみってのは、誰にでもあるもんさ。

勘で書いた誰かの名言っぽいなにか



こんにちは

こんしるです


ここ最近生産する活動が連続していて、その割には締切に追われすぎて疲れつつ、論文締切があまりにもヤバくてまいっています

クッッッソ寝不足のバス内で書きなぐっているので思考が死んでいます

登壇したりもしました
本当にしたっけ

したっぽいな




最近何かと痛感させられる話として、

こんなのがあります

好きな創作活動の話ですね

クソ雑書きなぐりで僕の中の「なにかしらを創造する営み」を列挙してみました

  • 何かしら未知の現象を発見して名前をつけたり、未知の現象の背景を発見して新たな知見を創造するもの(要は研究)

  • ある目的や機能を達成することを目指して、それまでには存在していなかった技術やシステムを構築するもの(開発)

  • なにかしらの伝達されうる媒体を通じて、思考や主張や感情を表現するもの(芸術)

  • 料理(料理)

  • なんとなく出来上がりつつあるものを洗練させ、そのものを制作するに至った要求事項に沿う形で磨き上げるもの

などなど…



でよく思うさっきよツイートでした内容ってのは、既にあるギミックを借用しつつ逆張りで変なことをしようとするのが好きです

あ当然好き嫌いの話だからね!!得意不得意とかの話じゃないよ!!!


vrcで謎ワをちょびちょび出したり構想ねったりして、やっぱ「体験」を考えようとするのがマイブームです

なにがワクワクとか楽しさを生むのかなぁとか考えたりして、でもまだ全然わかりません……




と思っていたら、急にnoteを広げてこうやって書きたくなるナニカを得ました





これは謎解き沼の人だから顕著なんだろうけど、「体験」はどんなものであれ唯一無二であると思っています。


その体験を咀嚼して言語化するツールとして過去の経験を参照することも当然あって、それが顕著に働くと「新しさ」は感じにくくなるが、でもその体験自体は確実にその時限りです。
2回目の体験は「初めての2回目」なのです。

しかも過去の経験は個人的なものであって、「新しさ」を感じるかどうかは人それぞれでしょう。


「新しいこと」と「新しさを感じること」は全く別ではないでしょうか。


僕の創作感が絡んできそうな話はここで、僕は「新しいことの発見」に興味がなくて、「新しさを感じることの発見」にワクワクします。

さらにいうと、「新しいことの発見」に新しさを感じていないようです、どうやら。


さて、「新しさを感じること」ではなく「新しいこと」に価値がある営みがあるわけで、それが研究です。
研究であれば共感や直感ではなく、「それまでの研究で言及されていない知見」、すなわち確固たる「新しいこと」にフォーカスが当てられます。

「新しいこと」を探求する試みは、人間の営みとしてとてつもなく価値があることだと思うし、未知から既知が生成されていく事自体当人を興奮させうる魅力を備えていることは承知しているつもりです。

でも個人的な話として、やっぱりそんなにワクワクしないんですよね…
未知は未知のままで良くないか?とかちょっと思ってたりするし、余裕で幽霊とか妖怪とか宇宙人とか半ば信じてます。

っていうかむしろ逆で、「幽霊」も「歴史上の偉人」も「テレビの芸能人」も同じぐらい存在を信じていません。え!?実在論とかの話!!?!?!?ワ!!!!!!!!!

というのが「自分研究は向いてないんだろ〜な〜」と思っている理由だったりします。



僕は「新しさを感じること」が好きです。
何もなくてもそこに新しさを感じて楽しくなることもあります。
日常会話の中で575を発見したり、街中の看板の改行位置が変すぎて笑ったり。

「体験」において大事なのは「新しさを感じること」であって「新しいこと」ではない、というのが持論です。
もちろんプロモーションなど、体験自体ではなくそのメタ情報が必要な文脈なら、新しいことには一定の重要な意味があります。
しかし、体験自体を味わうときには、過去の経験と無理に照合しようとせず、ただ流れに身を任せて今までの人生になかったその時間を受容するものだと思っています。
映画とか見るときに没入して自分の思考を入れないようにする派ともいいます。

ここで急に謎解きの話をすると、あれは確実に「新しさを与える」コンテンツだと思っています。
何気ない疑う余地もないような事象が、ラストの大謎のクリティカルな閃き、すなわち謎解きの楽しさになっていると思うのです。
解説で「そう……皆さんが今いるのは、地球です!!!」でテンションがマックスになって会場が湧くわけですよ?誰も(みんな知っとるがな…)なんて思わないわけです。(こんな公演があるかは知りません)

日常の新しさを再発見する意味でも、新しさを感じられる体験コンテンツはとても尊いものでしょう?



そして、「新しさを感じられる体験」を目指して制作することに、一体何の問題があるのでしょう?


日常に溶け込み、自明なものとして扱われた概念に「新しさを感じられる見方」を与えたコンテンツを作ったら、「その構図は過去に例がありますよね?」と新しくないことを指摘されたんですよね。

しかも「体験」の審査で。


かなしいね〜







オムライス食べながら(でも卵料理って他にもあるしな…)とか考えているのかな〜?


いいね











「新規性があること」をコンテンツ化したなんかでも作ってやろうかな









あ怖いので色々補足すると、そういった旨の審査コメントは1つだけで、他は全部体験自体への至極真っ当かつありがたい改良案や感想、解釈でした。


そしてもう一つの補足として、「体験が審査され評価される場における、フィードバックとしてのコメント」であるから「🙂」となっているだけであって、普通に感想として述べたり後から咀嚼する段階とかで過去のものについて言及するのは良いと思います。

それは個々人が持つ理解のための手段であるし、そのような言及が誰かからあったことをどう受け止めるのかは制作者側の問題だと思うので。

ちなみに僕は作ったものが「あのアレっぽいね!!」って言われると、不快にはなりませんがただ反応に困ります。「芸能人の〇〇に似てるって言われませんか!?」「はァ…」と同じノリです。


さらにさらに、何度も言いますが「新しいこと」は全くもって悪ではありません。
「新しいこと」を盛り込めばほぼほぼ「新しさを感じさせる」ことができると思います。

ただ、やはり新しさと新しさを感じることは違っていて、どんなに新しい体験でも提供が下手であれば新しさは消えるだろうし、二番煎じネタであっても工夫次第でどうにでも新しい面白さを提供できます。


このノリで「こんなコンテンツは刺さらないんだよな〜」の話に帰着させようとしましたが、まとまらなくなってきたので諦めました





うーむ





ここまでノリと勢いで書いたんですが、よくわからなくなってきたな……


でもよく分かるために言語化したくなって語彙力欲しくなってくるのもなんかな……




結局僕は開発向きなのか研究向きなのか芸術向きなのかエンジニア向きなのかなんにも分からなくなってきたぞ!!!!!!!!!






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