「いいね!」や「ふぁぼ」は便利すぎる、ゆえに人間をロボットにする

SNSがどんどん身近になっている昨今、ほとんど全てのサービスに類似の機能が搭載されている。この note 然り。という背景があり、標題の件に関心が生まれてきた鹿なう。「いいね!」等の言葉は、一体何を表象しているのか? そんで、それは何をもって必要とされており、何を犠牲にしているのか?

率直に言って、この言葉(=Facebookの「いいね!」、Twitterの「ふぁぼ」、そしてnoteの「好き」などなど)は、便利すぎっす。何かを見て、何かを感じて「いいね!」ボタンをクリック。つぶやきを読んで、何かを感じて、「ふぁぼ」に登録。この3つのプロセスで全て完結してしまう。言い換えれば、何を感じたのか、というのは重要でなくなっているようだ。いや、重要性の問題ではなく、多くの人間たちにとって、何を感じたのかを追究することができなくなっているといったほうが正確であるというような気がする。

「好き」「嫌い」という最もシンプルでかつ生活において必要な判断が、「いいね!」をはじめとする記号によって代理表象される。現代人の苦しみを再生産し続けているのは、この記号の過剰な使用によるものなんじゃないかな(ものすごく直観的だけど)。なぜなら、本来もっと複雑な過程を経て承認されていくアイデンティティが、単なるテンポラリなコミュニケーションの一過程において、蔑ろにされてしまっているから。換言すれば「自分って何が好きで何が嫌いなんだろう……」と思考しなければならない(し続けなければならない)ところを、「いいね!」(ボタンをクリックすること)と「非いいね!」(ボタンをクリックしないこと)の二項対立で表現しているSNSというシステムに丸投げしているそして、束の間の承認欲求を解消している。加えてそのシステムに半依存状態になってしまっている。「こんな場所に行ったよ!」とか「こんなモノ食べたよ!」をアップロードし、それに対してリアクションをもらう行為自体は良いことだと思うんだけど、そのリアクション獲得に過剰なまでに敏感な人間はたくさんいる(その証拠として足りうるかは微妙なところがあるけど、反モラル的な使用法すら出てきて、ちょっと前にTwitter炎上が絶えなかったよね)。しかし、本質的な部分(=アイデンティティの追究)のために立ち止まらず、単なる生活のいち部分を他者に表現しているだけだからこそ、病んだ人間ができあがっていくんじゃないかな

そもそもFacabookとかTwitterが日本で流行し始めたのはいつだっけ……。僕がアカウントを取得したのは、Twitterが2008年、Facebookが2010年だった気がする。その時期に何が問題になっていたのか思い返してみると、リーマン・ショックやユーロ危機(ギリシャのデフォルト)という大きな経済的ショックがあったと思う。すげー感覚的な話だけど、SNSの流行(もちろんmixiが流行っていたけど、「いいね!」は非搭載だった)と、これらの経済危機は関係しているんじゃないかな。「いいね!」という言葉が内包する<予見可能>性という性質に注目した時、そのようなことが言えやしないか? つまり、次のようなことだ。
★「いいね!」をクリックされる →自己同一性の承認満足
 「いいね!」をクリックされない→自己同一性の承認不満
というように、自己(同一性)というものが、即座に解消されなければなっているからである。これは、誰もが予測できなかったリーマン・ブラザーズの倒産やユーロの崩壊を反省し、あらゆるものを<予見可能>にしなければならない、という強迫から生まれて来んじゃないかな?
ビジネスにおいて「要点のみまとめて」というのは常套句であるけど、このビジネス的思考が、2008年〜2010年のSNSブームと経済危機を機に、それ以外の領域にも流れ込んできたような気がする。だから、アイデンティティの追究も、即座に行わければならないように思われている。そんなことは、本当は不可能なのに。しかし、誰も「不可能」と言わないし、そう発言してしまうと排他される恐れすらある。あらゆるものを<予見可能>にするためには、人間本来が持つ複雑性、すなわち感情すらも、定量的に示していかなければならないだろう。だけど、そうなると人間とは最早ロボットに過ぎない、と鹿の僕は思ってしまうのであった……。

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