小説家は小説に何を求めるのか?

最近また、noteを利用する機会が増えてきたのだが、人それぞれ提供するコンテンツは当然異なるわけである。

その中で、小説を書くとプロフィールに記載している方々が多数おり、非常に興味深い。小説とは何か? もっと言えば、21世紀に小説を書くという決断はどこから生まれるのだろうか。

20世紀以来、われわれの感覚、とりわけ五感の中でも視覚が強烈な影響を受けて研ぎ澄まされてきた。言うまでも無く、写真の普及と絵画の発展、映画の登場からマンガやアニメまで……様々なヴィジュアル経験を通じて、21世紀人は、より強度で直接的なイメージを求めている。

別に文化変遷がどうこうという話でもない。もっと一般的な話である。

たとえば、かつて、学生が思い出を共有する際に利用したのは「交換ノート」であっただろう。それはいつしか「プリクラ帳」になった。さらには「写メール」以来、思い出は携帯電話をはじめ、ポータブル機器で共有されることになる。

それと同時に、文字情報はより短くなることが求められた。ポケベル、メール、そしてLINEスタンプ。わたしたちはよりスピーディに、かつ直感的理解のために文字を使用する。

何を言いたいのかというと、誰もが強度で直接的なイメージを求める中、冗長で曖昧な小説は何を提供できるのか、もっと多くの人々が考えてもいいのではないか? ということである。

もちろん、小説が提供可能なイメージはある。これは間違いない。しかし、18世紀(たとえば書簡小説)、19世紀(たとえば写実主義)、20世紀(たとえばヌーヴォー・ロマン)と変遷してきた小説の提供物は、21世紀においてどうなるのだろうか。それを考えなければ、それこそ私のように、小説を必要する者だけが小説を読むだけである。もちろん、それも一つの形だし、ある意味では分業の帰結点とでも言えるだろう。

ところで勘違いしてはならない。ここで私が話しているのは小説についてであり、記述行為そのものではない。

いずれにせよ、誰もが「小説家」になれる時代で誰もが小説を求めるとは限らない現在、なぜあなたは小説を書こうとするのか? 私の関心は、そこにある。

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