限りなく透明に近いブルーな若者

馴れ合いが嫌いだから独りでいます……、みたいな小説や漫画が売れていますね最近。おそらく殆ど全ての人間が「そういう時代だから」で済ましてしまうところにこそ真摯に向き合うのが僕の仕事なので、今日はその点を考えて見ました。

そもそも馴れ合いって何だ? ということでwikipediaに聞いてみた。

馴れ合い(なれあい)とは、利害を共にする同士が結託して、通常取るべきとされる手続きを踏まず、暗黙の合意の元に意思決定を行うことを指す。

また、概要には次のようにある。

対立して緊張関係を持ち、それによって公平で中立な関係が保たれるべき場において、裏側で両者が親しい関係を持ってしまうためにその緊張関係とそれによる利点が失われることを馴れ合いということがある。

いずれにせよ、利害が関係してくるコミュニティにおいて、通常とは異なる、特に不本意的な意思決定がなされることを馴れ合いというようだ。

それでは、この不本意を判断するのは誰なのか? 言うまでもない、馴れ合いという語の使用者である。このエントリにおいては、馴れ合いを嫌う若者である。

彼らが、自身の外にある特定のコミュニティを馴れ合いと蔑む(少なくとも彼らは蔑みの意図をこめて使用している)のは、自分の思い通りにいかないからなのである。こういうと、当たり前じゃん? と思うだろう。しかし、僕がクダラナイと思うのは、彼らが一部分を見て馴れ合いと判決を下し、「なぜ馴れ合いが成立するか」という原因に関して興味を示さず、「いつでも自分が正しい」という短絡的で浅薄な自己承認を求めている点にある。

ちょっとわかりにくいだろうから、図を入れる。

★馴れ合いを嫌う若者は、背景の関係成立過程を省き、今しか見ていないの図

馴れ合いを嫌う若者は、仲良しのAさん・Bさんに対して、馴れ合っているという判決を下す。彼らにとってはAさん・Bさんが仲良くなった経緯などはどうでもいい。重要なのは、「今」阻害された「自分」が存在するということなのである。そして、その阻害を肯定するべく――そう、誰も肯定してくれないので仕方なく――他者を蔑み、自己承認を試みるのである。

要するに、馴れ合いを嫌う若者は、自身の経験を、どこかで誰かに手放しに受け入れてもらいたいだけなのである。

以前のエントリにも述べたが、これはアイデンティティの複雑さを考慮せず、テンポラリな承認欲求を満たすためだけの「いいね!」的な願望であるといえる。というのも、本来は複雑な自己を見つめ、それを関係性の複雑さの中に埋め込んでいくという過程を踏まえたうえで生まれる馴れ合いを、彼らは瞬間的な現象としてしか捉えられず、またそのようにして自己を他者に容認させようと強制するからである。そう考えると、馴れ合いを嫌う若者が、SNS上では嬉々として馴れ合う姿も納得がいく。

馴れ合いを嫌う若者は、自身の経験を手放しに受け入れてもらった後の馴れ合いを望んでいる。「私は今辛いの!」「だから辛いことはしないの!」「ありのままの私を受け入れてくれない皆は馴れ合っているだけよ!」という態度は、ほんの少数でも認めてくれるヒトが現れるやいなや、「周りのヒトを大切にすることが一番大事」「みんながいてくれるから私は生きている」「馴れ合いじゃない、支えあい」という三流キャッチコピーに変化する。

複雑な自己を希求するわけではない馴れ合いを嫌う若者たち。馴れ合いたいのに上手く馴れ合うことのできない彼らがSNSの中から出てきたとき、馴れ合うことを好む若者(あるいは中年かもしれないが)に変わっていることは、もっと注意して研究しても良いかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?