SNSユーザ、<読-作者>、「いいね!」という擬態的グループ

良し悪しの話ではないという前提のもと言ってしまいたいことがある。そういう前提に立てる者と議論したいことがある。

「Web」の構造と現代人・社会の関係性という点に関心があるので、Webユーザビリティとヒトの思考プロセスや、「ヒト-コンテンツ」、あるいは「コンテンツ」としてのヒトという考え方に注目しているのだけど、これから、もっと各人の「記事」(注:ここではWebを通じてアウトプットされたあらゆるモノの総称を指すことにする)に関する発言をしたい。

ここで取り上げたいのが<読-作者>としてのユーザにおける、発信された「記事」の関係性。

<読-作者>とは、誰かが発信した「記事」について、即効(速攻?)性をもって新たな「記事」を組み立てる主体のこと。我々はSNSを通じて、ある「記事」をもって反応するが、それは非常にスピーディである。たとえば、「いいね!」(Fb)や「ふぁぼ」(Twitter)や「好き」(note)で反応を示すこともそうだし、「シェア」や「引用」や「エアリプ」もそうである。

しかし、そこには反省というプロセスがごっそり抜け落ちている。つまり、<読-作者>とはしばしば感情的な生き物となるのである。

さっき偶々みつけたのが、コーヒーの飲み方について言及した人の「記事」と、その人について「こんな奴はコーヒーを飲むな」という怒りの反応を示した「記事」である。

これじゃあまともに議論できるはずもない。今回のケースでいえば、誰もまともな意見を述べていないので、コーヒーの定義や現代性、そこに求められているものは誰も判断できない。残されているのは、「好き」の数という、考えなしにつけられた反応と、一瞬間の感情の記録だけである。

しかし、「好き」の数が多くなれば多くなるほど、その記号は強いグループという表象のために機能する。そこに、存在としてのグループはない。しかし、さもそこにグループがあるかのように振る舞う。つまり、ただの感情が、当世の言説であるかのように表れるのである。(私はこれを、擬態的グループ性と呼びたい。)

もちろん、コーヒーに限らず、数多の記号について、多様な解釈があるのは当然である。しかし、そこに客観性を求めず、ただ感情を発散しているだけでは、自分の考えが進歩することはありえないし、たんなる我侭のゴリ押しでしかない。重要なのは、コーヒーの正当性を担保する言葉(記述行為)であり、その記述行為のアンチテーゼになりうる別の記述行為である。そうでなければ、それこそ「お前こそコーヒーを飲むな」という感情で片付いてしまう。

要するに、このように自己の反省の欠落が、現代人の病であり、今風の言葉で言うくだらないオナニーの正体なのである。そして「いいね!」的記号が、その欠点を担保していたのである。現代人の自己反省的なプロセスを我々が喪失してしまったのが、SNS的な即時的反応の影響によるとみなすことは、それほど不自然なことではないのではなかろうか。

最後に、ここまで「いいね!」的記号の曖昧さについてホッタラカシに話してきた。両義的ともいえるこの記号の表象それ自体については、次の機会に考えたい。

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