【第479回】『ライフ・アクアティック』(ウェス・アンダーソン/2004)

 まるでスイスのロカルノ国際映画祭を模したようなロカスト国際映画祭の会場、2階席3階席に至るまでびっしりと埋まった観客席。おそらく映画祭ディレクターだろう男の流暢なイタリア語、お決まりのgrazieのフレーズ、満員の観客の大きな拍手喝采の中、ある映画が上映される。海洋探検家でもあり映画監督の主人公スティーヴ・ズィスー(ビル・マーレイ)のモチーフとなるのは、かつて60年代にルイ・マルと傑作海洋ドキュメンタリー『沈黙の世界』を監督したジャック=イヴ・クストーという人物である。スタンダード・サイズで撮られたドキュメンタリー映像、世界各国から集められた「チーム・ズィスー」のメンバーはさながら平等と博愛に彩られたズィスーの理想の擬似家族の様相を呈する。だが淡々とした風景に一瞬にして亀裂が走る。長年ズィスーと行動を共にしてきたエステバン(シーモア・カッセル)の死、彼の身体を一瞬で切り裂いた「ジャガーザメ」の凶行。しかし肝心の凶行の瞬間はカメラには映っていない。やがて監督と観客のQ&Aの場が設けられる。舞台の上で長机に座ったズィスーと観客とのリバース・ショットの折り目正しい構図は、『天才マックスの世界』冒頭の寄付金講演の模様を想起させる。裏口から出て来たズィスーの表情はあまりにも浮かない。盟友を失い、5,6年鳴かず飛ばずで、最愛の妻にも愛想を尽かされた孤独な男、彼を尊敬して止まない弟子クラウス・ダイムラー(ウィレム・デフォー)の息子に希少種の「タツノオトシゴ」をプレゼントされるも、記者の「次は誰を殺すんだ?」の心無い言葉に思わず手が出る始末。楽しいはずの新作上映会は、ズィスーにとってほろ苦い現場となる。

その夜、船上パーティの席上、相変わらず表情の冴えないズィスーに1人の訪問者が現れる。きっちりとしたマリン・ブルーの制服を着込み、整然と髪を整えた長身の男ネッド・プリンプトン(オーウェン・ウィルソン)は、ズィスーがかつて付き合った女性(母親)の名前を挙げ、あなたの息子ですと名乗りを上げる。その口調は決して断定ではなく、「if」の仮定形であるのだが、30年ぶりに登場した息子を名乗る男との思わぬ再会にズィスーの気持ちは大いに揺らぐ。呆然とした表情で船のマストへと進み、思わずタバコをくゆらす男の表情は、満ち足りた幸福な表情にも見える。今作も前作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』同様に、父性を失った男の回復物語の主題を纏う。かつて天才と称された男の落ちぶれた悲喜劇も『天才マックスの世界』から繰り返し用いられた重要な主題だろう。彼は新作の制作費を集めるのに苦労している。「チーム・ズィスー」の親方として、リーダーとしてのカリスマ性を発揮する立場に置かれながらも、一貫して父性の獲得はおろか、彼の孤独を癒す母性さえ見つけ出せていない。その状況にふいに現れた息子と名乗るネッド・プリンプトンの存在。そして取材と称し、船に同乗する1人の女ジェーン・ウィンスレット=リチャードソン(ケイト・ブランシェット)が決定的な嵐をもたらす。処女作『アンソニーのハッピー・モーテル』から一貫して、しばしば登場人物たちは一瞬で雷に打たれたように恋に落ちる。まるで陸地の探検隊の同行取材を求められたような勘違いしたファッション、クールな微笑み、シニカルな問答を含め、ズィスーはレズだと断言して憚らないが、実は裏腹に彼女に猛烈な恋心を抱いている。それは彼の息子を自称するネッド・プリンプトンも同様である。これまで親友同士の恋の鞘当てになることはあったが、擬似親子の三角関係は今作が初めてである。ズィスー、ネッド、ジェーン、彼ら3人のロマンスを基調としながらも、既に身重な体を含めて、ウェス・アンダーソンは一貫して擬似家族の造形に固執し続ける。

アメリカ大陸を逸脱した物語の異国性という名の世界の拡張、これまでの平面の画面に加え、奥行きさえも生かしたズームイン、ズームアウト。ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン、シーモア・カッセル等常連俳優の起用など、監督の作家性の爆発は今更云うまでもない。加えて今作では『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の監督ヘンリー・セリックによるストップ・モーション・アニメがファンタジーという独特のクリシェを拡張する。夢にまで見た憎き「ジャガーザメ」のびっくりするほど牧歌的なキャラクター造形は、荒唐無稽なフィクションを体現する記号として機能する。赤いニット帽とお揃いの作業着は、初期から度々垣間見えたユニフォームへの偏愛を反復する。ご丁寧にもインド人青年だけは、赤いニット帽ではなく赤いターバンをしている。『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のクライマックス同様に、家族の喧騒を捉えたテネンバウムズ家の長回しが、今作ではベラフォンテ号の断面図に形を変え、妄信的にクリシェを形成する。途中、海賊の侵犯から物語が二転三転するPOPさは類を見ない。1つのシークエンスが終わるたびに、映画は別の作品へと生まれ変わるかのようだ。

それにしても狭い空間に閉じ込められた人物たちが右往左往するのはウェス・アンダーソンの精神世界を体現しているのだろうか?『アンソニーのハッピー・モーテル』の精神病棟、モーテルの一部屋、アジトのエレベーター、『天才マックスの世界』のローズマリー先生の部屋の小窓、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の室内に置かれた極小のテントを例に挙げるまでもなく、ウェス・アンダーソン映画において、しばしば狭い空間が物語の重要な起点となる。気球でのズィスーとジェーンの横並びの構図、未整備のヘリコプターでのズィスーとネッドのコクピットでの様子など、しばしばウェス・アンダーソンはこのような狭い空間の構図を好んで用いる。また『アンソニーのハッピー・モーテル』のプールからの浮上、『天才マックスの世界』のビル・マーレイの高飛び込みの悲哀を例に挙げるまでもなく、今作では海中への飛び込みが親子の決定的な別れを齎す。残酷ではあるけれど時に受け入れるしかない別れが、エステバンを失った後の続編を成功させ、ズィスー自身の父性の奪還へと連なるラストは見事というより他ない。折に触れて観たくなる傑作中の傑作である。

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