【第224回】『奴らは今夜もやってきた』(黒沢清/1989)

 今作はディレクターズ・カンパニー主導のオムニバスとして、ディレクターズ・カンパニー所属の監督を想起して作られた3話構成のオムニバスである。商業映画として、2本のロマンポルノを撮ったものの、この時代の黒沢清は明らかにくすぶっていた。この企画がディレクターズ・カンパニー内部で提案されると、黒沢は真っ先に手を挙げたという。この頃の黒沢がいかに恥も外聞もなく、長編劇映画に飢えていたのかがわかるエピソードである。

今では悪名高いディレクターズ・カンパニーの名も、内部は無視して、外部にいた者にとっては、この頃はまだ希望に満ちた名前だった。映画会社5社は映画斜陽化の影響を食らい、撮影所システムは崩壊。新たな受け皿として、監督の寄り合いであるディレクターズ・カンパニーの名前はいまだ威力を持っていた。このディレクターズ・カンパニー設立当時、キネマ旬報の特集において河原畑寧が「映画監督がいくら集まっても駄目だ」と書いていたのが今でも強く心に残っている。他の批評家が概ねディレクターズ・カンパニーの設立を好意的に評していたのに対し、河原畑寧の言葉は冷淡だった。だが今はその言葉が真実だったということを実感している。

ディレカンに対する証言は人によってまちまちでどこに真実があるのかは我々部外者にはわからない。しかしながらことあるごとに黒沢が語る「作品を撮れない自分たちも不幸だったし、撮れている相米さんも同じように不幸に見えた」という証言はあまりにも重い。『台風クラブ』まで、全てが順調に見えた相米慎二の勢いが『光る女』の歴史的不入りにより、止まる。80年代後半のフィルモグラフィを眺めると、そこには確かに何か暗いものが差し込んでいるように見える。その象徴こそが『雪の断章』であろう。

この頃のディレカンには、近い将来映画が撮れなくなるという諦めにも似た感情が蔓延していた。所沢に引っ込み、バブルの空気を感じることも出来ずもがいていた黒沢は、今作に東京ではなく、山奥にある田舎の別荘をロケーションとして選んでいる。公開のタイミングは『スウィートホーム』より後になったものの、『スウィートホーム』のクランクインよりも数ヶ月前に制作された。2本のロマンポルノで商業映画にデビューするも、2本目に撮った作品は「わけがわからない」とボツにされ、自分の信じるホラー映画に活路を見出すほかなかったのである。その頃の焦燥感と根拠の無い自信がないまぜになった作品が今作だと言えるのかもしれない。

冒頭、林の中に据え置かれたカメラが林を抜けようとする一人の男をロング・ショットで据える。林の中からは幾多のもやが立ち込めている。あの『カリスマ』の幻想的な林のショットの原型は、既にこの時点から黒沢の中にはっきりとイメージとしてあったのである。男は林道に出ると、瓶詰めのウイスキーを呷っている。既に足元は千鳥足で歩行もおぼつかない。そこに物凄いスピードでトンネルを走り抜けたおんぼろのトラックが、人の存在を無視するかのように猛スピードで通り過ぎる。間一髪、体にはぶつからなかったものの、ウイスキーの瓶はコンクリートに叩きつけられ、酩酊した男は激怒する。このトンネルのロケーションは明らかに神代辰巳『赫い髪の女』のファースト・シーンへのオマージュである。あのあまりにも印象的な徒歩でトンネルを抜ける宮下順子を左側に据えて、右側を勢い良く走り過ぎるトラックの描写が、今回はスピルバーグ『激突』のように凶器として男の前に現れるのである。そこからジャンプ・カットでトラックに詰め寄るが運転手は既にその場を離れていていない。怒りをぶつけるあてのなくなった男は旗をむしり取り、小便をかけるが、既に彼の背後には恐るべき生物が潜んでいるのである。

今作は黒沢清が正面切って、ジャンル映画としてのホラー映画に果敢にも挑戦した35分の中編である。グリーグのペール・ギュント第1組曲の「山の魔王の宮殿にて」を大胆に使いながら、謎の大男2人は殺戮を繰り返している。前作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』でもクラシック音楽とテープレコーダーが重要な意味を持っていたが、今作でも小道具としてのカセット・テープの使い方が実に効いている。恐怖は足音ではなく、この「山の魔王の宮殿にて」の音楽が近付くことで明らかにされる。作家の園田(石橋蓮司)は突然来訪した虚無僧の2人を変な格好をしたセールスマンだと勘違いし、カセットテープ・レコーダーを切る。しかし上を見上げるとそこには既に抜かれた刀が、彼を今にも襲おうとしているのだった。

黒沢は大胆にも今作で、89年当時のハリウッド映画に肉薄するような作品を撮ろうとした。2人の虚無僧が理由なく作家の別荘に押し入り、彼の命を付け狙う物語を、ホラー映画の定石を踏まえながら、活劇として描こうとしている。無残にも惨殺されるファースト・シーンの後、ほんの数カットで石橋蓮司の職業や境遇を観客にわからせるハイ・アングルのカメラワークが素晴らしい。アメリカ映画でもタイトルバックの僅かなショットを利用して、部屋の壁に飾られた家族の写真や勲章や、主人公の職業にまつわる道具などを見せながら、物語の導入と説明が済んでいるというあのハリウッド映画の展開を実にあっさりと踏襲し、主人公の境遇を鮮やかに伝えるのである。

しかしながら出来上がった今作を観ると、アメリカ映画への模倣と言いつつも、ある意味日本映画にしか出来ない形式が随所に見られる。冒頭の神代辰巳の『赫い髪の女』へのオマージュなんて、2015年現在もアメリカ産のホラー映画のどこにもない。得体の知れない2人の大男が虚無僧だということも、彼らが石橋蓮司に殺意を持って近付く武器が刀であることも、明らかに日本映画にしか出来ないホラー映画の形を作っている。すりガラスの向こうに見える不気味なシルエット、そこに浮かぶ虚無僧の藁で作られた半円状の帽子、立て付けの悪い木製の平屋に危機が迫った時の、1cm程の隙間から飛び出す刀などが恐怖を演出する。

また途中立ち寄ったうどん屋さんの場面がすこぶる良い。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の同窓会と言わんばかりのウェイトレス役の洞口依子と石橋蓮司の会話。地方で暮らす女は、石橋蓮司が都会で暮らしている男だと一瞬で見抜く。飄々とした語り口を持ちながら、好意的に会話を進めるウェイトレスの女と、内心気が気ではない石橋蓮司の対照的な描写は、まるで『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の洞口依子と伊丹十三の延長戦のように胸に迫る。そのじりじりとした会話のやり取りを邪魔するかのように、グリーグのペール・ギュント第1組曲の「山の魔王の宮殿にて」を口笛で吹く加藤賢崇が実に大胆で容赦がない。石橋蓮司の恐怖などまるで知らない加藤賢崇は、何度も何度もその曲を無限ループのように口笛で演奏する。この何てことない数分の場面が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を観ている観客には、実に魅力的に映るのである。

風呂場でズタズタに切り裂かれた衣服を前に、石橋蓮司はいよいよ恐怖の絶頂に達する。後に黒沢組の常連俳優となる警察官の諏訪太朗に訴えるも、「人生はなるようになる」とわけのわからない格言を突きつけられ、彼はただ一人孤立する。その夜は嵐の晩であり雷鳴が轟いている。ホラー映画の定石を至る所に配置しながら、来たるべきクライマックスの活劇に備える。

クライマックスの2人の虚無僧との攻防は、決して悪くはないものの、アメリカ映画とは明らかに隔たっている。それはバジェットの差であり、スタッフの力量の差であり、わが国に漂う精神的な風土の差でもある。アメリカ映画を本気で目指したわりには、明らかにしょぼい残念な攻防になってしまっている。建物のロケーションに隠れるような距離がないのが物理的敗因であるが、そういう空間的特徴のわりには黒沢清はとにかく頑張っている。ラストの雷の描写に関しては、明らかにロバート・ゼメキス『バック・トゥ・ザ・フューチャー』への無邪気なオマージュであろう。雷の威力を伝えるためには、石橋蓮司があんな顔であそこの上に座っていては駄目なのだが 笑、黒沢が今作で何をやりたかったのかがクライマックスの描写には十分詰まっている。初期2作の無邪気さは幾分後退したものの、実に味わい深い小品である。

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