【第279回】『エスター』(ジャウマ・コレット=セラ/2009)
ジャウマ・コレット=セラは『蝋人形の館』を撮った後、今度はスペインに戻り、『GOAL!2』を撮る。これは特に可もなく不可もないフットボール啓蒙映画で、プレミアリーグの名門チーム、ニューカッスル・ユナイテッドからスペインの名門レアル・マドリードに移籍し、ヨーロッパクラブチームの頂点を争うUEFAチャンピオンズ・リーグへの進出を目指すサンティアゴ・ムネスの活躍を描いている。ベッカム、ロナウド、ジダン、ラウル、カシージャス、サルガドらの全盛期の活躍が映し出されていてそれなりに懐かしい。ただフットボール信奉者としてはフットボールはフットボール、映画は映画である。ここにスポーツの醍醐味はないし、やはり『GOAL!2』もサッカーを扱った物語にしか過ぎない。しかしながらピッチ上よりも明らかに監督が頑張ったカー・チェイスの場面だけはまったく別である。やはりこの頃からジャウマ・コレット=セラという男は活劇がやりたかったのだと実感する。
その『GOAL!2』から2年後、再びアメリカでホラー映画を撮る。それが今作『エスター』である。めでたく3人目の赤ちゃんを身ごもったケイト・コールマン(ヴェラ・ファーミガ)だったが、運悪く流産という悲劇に見舞われてしまう。それは、ケイトの精神に耐え難い苦痛をもたらし、コールマン家の安定を脅かしかねない事態となる。そこで夫婦は養子を迎えることを決意、地元の孤児院を訪れる。するとケイトは、聡明で大人びた一人の少女、エスター(イザベル・ファーマン)に惹きつけられる。彼女を養子として引き取ることにしたケイトだったが、やがてエスターの恐るべき本性に気づいてしまう。
今作においても出来ることしかしないジャウマ・コレット=セラの手腕は実に手堅い。冒頭、数分間でこの家族に共通する心の傷は、3 人目の赤ん坊を死産してしまったことに起因する悲しい出来事なのだとわかる。そしてさりげなく主人公にかつてアルコール依存症がもとで、娘のマックス(アリアーナ・エンジニア)を溺れさせかけた過去があったことさえ提示する。この出来事が後のドラマへの布石となる。夫婦仲は決して悪くないが、彼女は死産の時の心の傷が元になり、SEXが出来ない体になってしまったことを恥じている。なんとか普通の生活に戻そうと必死だった夫婦は、ある日急に子供に内緒で養子を迎えることを決意する。
養子縁組の施設に降り立った主人公は、その施設の2階からこちらに向けられた強い視線を感じることになる。しかし見上げた時には、その人物はいない。この一瞬の演出がその後の恐怖の分かれ目となる。夫はトイレに立つが、何かに惹きつけられたように2階の奥の部屋を覗いてしまう。罪悪感を感じた夫はすぐにトイレに戻ろうとするが、少女の「誰?」という言葉に反応を示す。少女は黙々と絵を描いていたが、そこに描かれた絵は子供のものとは思えない独特の世界観があった。夫婦は満場一致でこの子の里親になろうと決意するのだった。
夫婦はその日からエスターという少女を死産した3人目の子供の身代わりのように育てる。そこに夫婦が掛け違えたボタンを修復する鍵があると信じて。実際にエスターが来て一度は夫婦の仲は元のような関係に戻るが、ある時キッチンでSEXをする夫婦の姿をエスターが目撃したところから、家族の関係は徐々に崩壊へと向かう。
処女作『蝋人形の館』においては、辿り着いたところに恐怖の空間があった。地図にも乗らないその場所で分断されたグループは、1人また1人と恐怖の兄弟の犠牲者になった。今作では同じホラー映画でありながらそのベクトルは真逆である。少女を養子にもらったことが元で、家族のバランスが崩壊寸前を迎えるのである。特に彼女の表裏を現した描写として、教えてもらっていたピアノをいとも簡単にエスターが弾きこなした際の、ケイトの狼狽ぶりが怖い。あの日SEXを目撃するまでは穏やかな子供だと思っていたエスターが、その日を境に豹変した姿を次々に見せていくのである。但しその豹変ぶりはケイト、長男のダニエル、末っ子のマックスにだけで、父親のジョンには相変わらず純粋な子供として振る舞うのである。
この手のホラー映画であれば、普通は残酷な描写を徹底的に増やしたり、簡単に人を殺したりするのだが、ジャウマ・コレット=セラの抑制の効いた演出はここでも冴えを見せ、家族4人とエスターとの緊迫したやり取りにのみフォーカスする。夫が主人公である妻の言葉を信じられないのは、かつてアルコール依存症となり、最愛の娘を溺れさせた過去があるからに他ならない。夫はエスターはただの子供だと信じて疑わないが、妻と2人の子供はエスターの邪悪さに気付いてしまっている。しかし彼女の犯罪に気付いていながら、子供たちはエスターの悪知恵に口を塞がれてしまっている。その様子をつまびらかにしながら、夫も精神科医も医者も誰もが家族の助けにならないサスペンス演出が実に見事である。ある種の真空状態を作り出した上で、クライマックスに雁字搦めに見えたケイトとマックスの布石をしっかりと回収する。
「最後の瞬間の脱出」に腕力のある男性陣が絡むことはない。家族の柱であるジョンが彼女を盲目的に信じたらどうなるのか?その結果はあまりにも目に見えている。ここでは密閉された部屋に隠れている難聴の娘が、第二の犠牲者になるかもしれない。閉じ込められた娘の救出作戦が始まるのである。『蝋人形の館』の設定がさながら『悪魔のいけにえ』だとすれば、今作はジョン・カーペンターの『ハロウィン』のようである。惨劇の舞台となってしまった家族の象徴であるマイホームの崩壊とラストのどんでん返しまで息を呑むような演出が続いていく。前半部分の伏線をしっかり回収しながら、クライマックスの見事なアクションに繋げるジャウマ・コレット=セラの手腕はこの頃から非常に優れていた。だがこの段階ではまだまだホラー界隈での出来事であり、ジャウマ・コレット=セラの快進撃はゆっくりと始まった。
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