【第227回】『地獄の警備員』(黒沢清/1992)

 『スウィート・ホーム』は、黒沢の90年代前半までの所属会社であった、監督たちの寄り合いであるディレクターズ・カンパニーで資金を捻出出来ず、伊丹十三の力を借りて何とか形にすることが出来た。だが『スウィート・ホーム』の現場では、黒沢と伊丹の作品へのヴィジョンはことごとく食い違い、結局出資者である伊丹に編集の最終決定権があったために、黒沢は妥協せざるを得なかった。その時の経験を後の黒沢は「しんどかった」とだけ表現し、その細部をあまり語ろうとはしない。この事件は結局、後にビデオ化する際に泥沼の裁判へと移行し、伊丹と黒沢の蜜月には終止符が打たれることになる。

この当時の体験が、後の黒沢清に与えた影響はあまりにも大きい。『女子大生 恥ずかしゼミナール』の上映中止と並んで、この事件は商業映画における何かしらのプレッシャーに対する予防線を黒沢に張らせるきっかけとなる。それははっきり言ってしまえば自分の表現したい欲望と、会社の要請との妥協点を探ることに尽きる。この『女子大生 恥ずかしゼミナール』の上映中止と『スウィート・ホーム』の最終決定権の剥奪が結果的には、最も合理的で段取りの得意な作家主義の監督という、一見矛盾したレッテルを同時に可能にする稀代の作家・黒沢清を形成するきっかけとなったのは間違いない。

しかしながら当時30代の黒沢は、とにかく長編映画の製作に飢えていた。関西テレビという味方は現れたものの、所詮はテレビの仕事であって、自分が本当にやりたい映画の仕事には結びつかない。その中で黒沢は「ホラー映画」に活路を見出すのである。末期のディレクターズ・カンパニー内部においても、制作会議は盛んに行われていた。そこで黒沢は元相撲取りの警備員が、あるビルの中で殺戮を繰り返すという異色のホラー映画を会議にかける。これは『スウィート・ホーム』の制作断念を踏まえ、黒沢が考えた苦肉の策だった。あるオフィスに住み着いた殺人鬼の話ならば、低予算で済むのではないか?黒沢は綿密なリサーチをした上で、制作費を割り出した。その企画に真っ先に反応したのは、ディレクターズ・カンパニー内部では根岸吉太郎だった。ちょんまげを結った警備員が殺人鬼になるというアイデアを面白がり、アテネ・フランセ文化センターの出資により、低予算である今作の撮影にこぎつけたのだった。こうして様々な紆余曲折を経て、ようやくクランクインに漕ぎ着けた今作には、黒沢のホラー映画への純粋無垢な思いが充満している。

冒頭、タクシーの車内が映し出され、会社への道を急ごうとするヒロインの姿がある。彼女は初出社の日、あやうく遅刻しそうになり、タクシーからトラックへと乗り換える。次の場面では会社の前までようやく辿り着いたヒロインが、警備員と何やら話している。彼女の発した12課という言葉に警備員は最初、怪訝な表情を浮かべるものの、やがて自体を飲み込み、会社へと誘導する。しかしながらそのトラックの前方は影になって見えない。後ろを振り返ったヒロインの表情が、やがて殺戮の舞台となるこのビルの恐怖を暗示する。

黒沢清の映画では、車に乗ることが、ただ車に乗ってどこかへ向かうという目的には留まらない。彼女たちは車に乗り、どこかへ向かった時点で、戻ることの出来ない運命へと踏み込んでしまうのである。今作は冒頭からヒロインの女性は既に、下元史朗演ずるタクシー運転手の車に乗っているのである。そのことが逃れられないサスペンスへの意識をより一層深める。新たに配属となった部署は、美術品の売買を取り扱うために、この会社で新しく配属された部署であり、そこには野々村(緒形幹太)や高田(由良宜子)、黒沢組の常連俳優となる久留米(大杉漣)や吉岡実(諏訪太朗)がいる。

この殺人鬼の得体の知れない人物造形と人格設定が言われなき恐怖を醸成する。彼は兄弟子とその愛人を殺害しながらも精神鑑定の結果、無罪となった列記とした殺人鬼である。明らかに並みの男ではなく大男であり、寡黙で言葉をあまり発しないあたりも不気味である。その大男が彼女の写真を盗み、なくしたイヤリングを付けているのである。それを知った主人公の恐怖は察するにあまりある。この見えない恐怖を久野真紀子が追い続けるが、対象となる人物と鉢合わせをしないのが、今作のホラー映画たる所以であろう。彼女は果敢にも様々な方法で彼の顔を見ようと試みるのだが、一向に殺人鬼の顔を拝むことが出来ない。

久留米と野々村は、同時にヒロインである久野真紀子を好きになったことで、まず最初に久留米がこの殺人鬼の犠牲となる。インシュリン注射のくだりで、大杉漣のセクハラまがいの変態性は明らかになるが、その仕打ちとして殺人鬼の餌食になるというのは同情の余地はある。その随分あっさりとした殺され方が、逆に言われなき恐怖を誘発する。そこから一人また一人と仲間たちが一人ずつ消えていく瞬間は、実に黒沢清らしい演出が効いている。ヒロインの周辺にいる人たちが一人また一人と徐々に消えていくことで、我々観客は否応なしに主人公の安否を気にしてしまうのである。

クライマックスでの用意周到な警備員・富士丸の仕掛けには心底肝を冷やした。彼はある空間に孤立させたヒロインを徐々に自分のテリトリーに招き入れ、自分の思いを遂げようとするのである。既に何人か人を殺しており、自分は警察に捕まると自覚しているが、ビル内の一切の電源を切り、警察がビルに入り込む隙を絶ち、ヒロインとの距離を徐々に縮めていく。その中で犠牲になった者たちの断末魔の叫びが恐怖を呼び起こす。ここで黒沢映画の中で初めて、半透明カーテンが使用されていることに気付いた方も多いかもしれない。半透明カーテンとはこの空間に対して、向こう側の空間を指し示す重要なインテリアであり、ホラー映画の装置としてはあまりにも有効である。最初、諏訪太朗がシルエットで富士丸の巨大さを実感するが、同時にその現場は野々村の殺害現場となってしまうのである。

ラスト・シーンでヒロインをラスト・ミニッツ・レスキューする兵藤(長谷川初範)よりも、諏訪太朗扮する吉岡の姿に肩入れしてしまうのは致し方ないことなのかもしれない。彼は果敢にもこのビルの惨状から彼ら彼女たちを救おうと試みる。彼を生かすも殺すも監督である黒沢清の裁量だが、その結果は是非フィルムで観てもらいたい。今作がハリウッド映画であれば、ラスト・シーンはヒロインである久野真紀子が抱き合うある家族の横を徒歩で去るとは考え難い 笑。しかしながら黒沢はこれがハッピー・エンドなのだと嘯くのである。

音楽は黒沢の初の商業映画である『神田川淫乱戦争』で、母親の言いなりになるマザコン高校生を演じた岸野雄一(岸野萌圓)だが、この頃の作品ではまだ当時のハリウッド映画のようなベタ付きのBGMが許されていた。言うまでもないことだが、後に90年代後半からは黒沢映画のサウンドトラックはこのようなベタ付きのストリングス重視の音楽から、引き算のようなさり気ない音楽へと移行していく。その意味では黒沢清がまだまだ無邪気に自分なりのホラー映画を模索していた時期であり、黎明期ならではの自由さと無邪気さが同時に備わっている。今作を黒沢清の代表作に位置づけるのもうなずける、90年代初頭の紛れもない傑作である。

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