【第456回】『アンソニーのハッピー・モーテル』(ウェス・アンダーソン/1996)

 男は木目調の窓を開け、しばし朝の柔らかい光を浴びてうっとりする。数秒後、光に慣れた目をゆっくりと開けると、逆光に反射した何かの光が男の眼前でチカチカしている。その光はいったいどこからやって来るのか?男の視線の先に見えるのは、病院の敷地外の木の下に座りながら、ミラーを逆光にして照らし出す1人の男。その姿を確認した主人公はニヤリとし、急いで服を着替え、ベッドにシーツを何重にもしっかりと結ぶ。施設の地面を映し出した俯瞰ショットの後、識別番号の描かれた腕輪を何度も触りながら、男は意を決した表情で深いため息をつく。そこでふいに外から扉がノックされ、精神科医が親しげに話しかけてくる。お世話になりましたと感謝の言葉を述べる男の部屋は窓がすっかり開け放たれ、何重にも縛られたシーツの異様な光景が拡がっている。医者に真意を追及された男は、ここに監禁されたと感違いした男が、脱走計画を練ってくれたのだとはにかみながら話すのである。やがて窓辺に立った精神科医は、双眼鏡を持ちながら、何度も手招きする男の滑稽な姿を確認し、すべてを悟ったような表情で、そっと窓からの脱出を促すのである。

かくして精神病院に入院していた男は、相棒の手で見事、幽閉された場所から脱出したかに見えるが真実は違う。彼は最初からその日、退院するはずであり、たまたまそこに相棒の脱出計画が偶然重なったに過ぎない。今作は主人公が偶然に身を任せることで、軽やかに物語の定型を踏み外していく。実に大胆な脚本のめくるめく展開は、次のショットがまったく予想出来ない斬新さに満ち溢れている。昔からのダチであるディグナン(オーウェン・ウィルソン)はアンソニー(ルーク・ウィルソン)を解放したつもりになり、強盗で一発当てようと短絡的な犯罪計画に誘う。アンソニーに主体性などはなっから無く、ディグナンのハッタリにほだされて口車に乗り、あっさりと計画に乗っかる様子の危なっかしさったらない。ディグナンとアンソニーは運転係としてボブ(ロバート・マスグレーヴ)を雇い、3人の罪を重ねる旅は幕を開ける。予期せぬ形でのロード・ムーヴィーはビギナーズ・ラックという名の幸運を齎すが、その幸運はそう長くは続かない。強盗に入った先が郊外の書店だということが、多分にウェス・アンダーソンという作家を暗示する。アンソニーは偶然、運命の書物を手にするが、大金を稼いだディグナンがアンソニーの手を振りほどき、脱出の道を指南する。こうして友情と端た金、爆竹と拳銃の試射に彩られた瑞々しいまでの浅はかなギャング映画は、うらぶれた安モーテルのプールへと行き着く。

NIRVANAの『Never Mind』のアートワークのようなカルキ臭いプールに飛び込んだアンソニーは、浮かび上がる瞬間、天使のような人物を目撃する。小麦色の素足、白いワンピース、ワンレングスの髪、首から上をモーテルの方へ向けた男の視線に気付き、女は訝しい目でプール側を見るが、その視線に男は微笑みかける。この運命の出会いがファム・ファタールの変奏であるとはいささか戸惑う筋立てである。かくして上昇志向で罪を重ねる3人の男たちのギラギラした野望から、主人公のアンソニーだけは逸脱し、運命の女を求める。男たちの欲望の物語は暗転し、ディグナンとボブの不和が生まれ、友情と愛情の狭間で振り回されるディグナンの姿が実に侘しい。運命のロマンスの裏で、ビリヤード台の上で地元の男に殴打される彼の惨めさたるやない。一心同体で相棒だと信じて止まない男が、絶望の淵からいち早く脱出し、自分だけが旧世界の住人だというある種倒錯した皮肉が物語を支配し始めたことで、クライマックスの展開は自ずと想像が出来る。銃を試射する集団の同一方向の短いショットや、プール側から見つめたモーテルのロング・ショット、美少女な妹とベンチに座るショットなど、後のウェス・アンダーソン作品で見られる様々なエッセンスの萌芽が見て取れるが、端正な構図や空間のディテイル、真正面から据えた登場人物たちのミディアム・ショットはほとんど見られない。だがダメな男たちの連帯の構図の素地はしっかりと垣間見える。多分にサンダンス的な青春群像劇ではあるが、ウェス・アンダーソン27歳の恐るべき商業デビュー作である。

#ウェスアンダーソン #オーウェンウィルソン #ルークウィルソン #ロバートマスグレーヴ #アンソニーのハッピーモーテル

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?