【第603回】『ボーン・アイデンティティー』(ダグ・リーマン/2002)

 地中海マルセイユの南200kmの海上、遠洋漁業のイタリア船の中では漁師たちがトランプに興じていた。激しい揺れと雷鳴轟く悪天候の中、甲板の様子を見に来た男が海に浮かぶ人影を発見する。波に揉まれてうつ伏せになった人間の姿。慌てて船に抱え上げる船員たち。生存は絶望と見られていたが、僅かに息をしていることがわかり、船医ジャンカルロはベッドに運び入れる。小型カッターで切り裂かれる黒のウェットスーツ、下から見える肌色の皮膚の上に、2発撃ち込まれた銃痕。臀部の下に埋め込まれたスイス・チューリッヒの銀行口座番号を示すマイクロカプセル。貫通せず、身体の中で燻された弾をピンセットで取り出すところで、突如男は逆上し、船医の胸ぐらを掴んで自分が誰なのかを問いただす。最初は海で溺れたショックなのかと思われたが、男の記憶は数日経っても回復しない。昼間は遠洋漁業の船を手伝いながら、甲板で懸垂をする男の姿。やがて船は数ヶ月に渡る作業からスイスの港へと戻る。男を救い出したジャンカルロは、手伝ってくれたお礼と記憶の回復を願い、男に纏まったお金を手渡す。自分は一体どこから来たのか?誰なのか?海の上で何をしようとしていたのか?曖昧模糊とした記憶を巡る男の自分探しの旅が始まる。

ベンチで呆然とした表情を浮かべながら苦悩する男の元を、左右から2人の警官が取り囲むが、次の瞬間、男は目にも留まらぬスピードで2人を叩きのめす。明らかに手慣れた凄まじい身体能力、船内では普通にコーヒーを入れられ、航海地図が読め、字も書ける男は間違いなくイタリア人の骨格ではないが、イタリア語さえ流暢に話す。だが肝心の記憶の海馬は一向に紐解けない。臀部に埋め込まれたマイクロチップの情報を頼りに、チューリッヒ相互銀行の前に佇む男は、チップに打ち込まれた暗号を入れ、自分の遺品ボックスに辿り着く。恐る恐る開けた箱の中には、世界各国のパスポートと一挺の拳銃。パスポートの表紙を開くと、そこには彼のポートレイトの下に「ボーン・ジェイソン」の文字。ようやく1つ目の記憶を巡る重大な手掛かりを見つけたジェイソン・ボーンの元に、彼の居場所を嗅ぎ回る謎の組織の追っ手が迫る。今作はロバート・ラドラムのベストセラー小説を元にしたスパイ・アクション『ボーン』シリーズの記念すべき第1作である。先行する『007』シリーズやトム・クルーズの『ミッション:インポッシブル』シリーズとの決定的な差異は、主人公ジェイソン・ボーンが記憶喪失であり、知らず知らずのうちに巨大な陰謀に巻き込まれている点にある。

本来なら『エクスペンダブルズ』シリーズの誰かが演じれば良いだろう80年代的な極めてマッチョな主人公に、マット・デイモンを指名したダグ・リーマン及びユニバーサル・ピクチャーズの配役の妙。ナイーブで繊細な役柄が多かったマットはその繊細さの中に、過去に周知徹底された圧倒的なポテンシャルと傭兵としての戦闘能力を密かに開花させる。ジェイソン・ボーンのたった1人の逃走劇を支えるのは、移民としてフランスにやって来たマリー・クルーツ(フランカ・ポテンテ)に他ならない。領事館に何度も足を運ぶが足蹴にされ、お金もこの国で生きていく未来の保証さえもないマリーは、当初100万円に目が眩み、軽い気持ちでジェイソン・ボーンの逃走の手助けを引き受ける。だがその瞬間、パリ警察から指名手配に遭い、ジェイソン・ボーン共々警察に追われる羽目になる。ニクワナ・ウォンボシ(アドウェール・アキノエ=アグバエ)にまつわるミステリーはやや荒唐無稽だが、度々繰り広げられるガン・アクション〜カー・チェイスの目まぐるしい展開以上に、監督のダグ・リーマンはジェイソン・ボーンの記憶にまつわる心理サスペンスに重きを置く。潜伏した先の家で、マリーの従兄弟の娘たちの寝顔を見ながら、隠された記憶なんて思い出したくないと泣きながら呟くジェイソン・ボーンの背中が物語に深みを加える。本線に命懸けの逃走劇を配しながら、本質としてはジェイソン・ボーンとマリーの自分探しの旅の様相を呈す。やがて彼が追い求めた真実に辿り着く時、新たな陰謀が渦巻く。最初から続編ありきの物語だが、今作の描き方は明確でブレがない。サスペンス色を最後まで持続させた記念すべき1作目である。

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